製鋼事業の推移
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会社設立と同時に工場の操業を開始し、試作を続けてきたフェロクロム・フェロタングステンの製造を開始し、続いてフェロシリコン・フェロマンガンの製造も始めた。これらのフェロアロイは陸海軍の工廠や日本製鋼所・八幡製鉄所へ出荷したほかアメリカ・オーストラリア方面へ盛んに輸出した。1916年10月末の第1期決算までの2か月あまりで約3万円の売上げを計上し年率1割の配当を行う好成績を挙げ、翌年4月末の第2期決算では売上げ・利益金ともに倍増し1割配当を継続できた。フェロアロイに加え、製鋼部時代からの目標であった工具鋼生産は1917年(大正6年)夏ごろより良質な製品ができて陸海軍工廠などへの納入が始まり、前後して鋳鋼やばね鋼・クロム鋼などの生産も始まった。同年9月、事業が軌道に乗ったとして下出が社長から退き、相談役の福澤桃介が2代目社長となっている。 好業績は設立翌年以降も持続しており、配当率は1917年10月末の第3期決算から翌年10月末の第5期決算まで普通配当年率1割に特別配当年率2割が加算された。特に大戦景気による鉄鋼業の活況を背景にフェロアロイの需要が旺盛で、熱田工場では生産しきれなくなったためフェロアロイ専門工場の新設を決定、1918年(大正7年)10月一挙に5倍の増資を行い資本金を250万円とした。新工場は長野県西筑摩郡福島町(現・木曽郡木曽町)に建設され、1919年(大正8年)2月に操業を開始した。 電気製鋼所の好業績を受けて1917年6月、名古屋電灯は社内に「製鉄部」を設置して電気で銑鉄を製造するという電気製鉄(電気製銑)の研究を開始。工場を名古屋市東築地に建設し、電気製鋼所の場合と同様に工場操業開始とあわせて分社化して1918年9月木曽電気製鉄(後の大同電力)を設立した。しかしながら電気製鉄は事業として軌道に乗るに至らずにまもなく終了しており、製鉄事業は木曽川などで水利権を得るための看板に過ぎないとも言われる。その後同社は生産品を鋳鋼に切り替え1920年(大正9年)7月より製造を始めた。
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