戦時疎開の経緯
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/23 01:40 UTC 版)
「函嶺白百合学園小学校」の記事における「戦時疎開の経緯」の解説
1944年(昭和19年)に入ると、太平洋戦争は緊迫さを増し、本土への空襲も必至と考えられるようになった。東京九段の学校(白百合高等女学校と附属初等科)でも、児童・生徒やスールたちの疎開を考える必要に迫られた。幸い神奈川県が横浜の新子安にあった白百合学園の土地の購入を希望していたためその売却で資金ができ、在校生の保護者の口ぞえで箱根強羅にあった旧男爵別荘と支援者の土地約300坪を購入した。当時シャルトル聖パウロ修道女会日本管区長であったメール・アンジュ・マリアほかの外国人スールたちがその年3月に強羅に疎開し、購入した別荘や住居を利用して急造の修道院と教室、生徒たちの寄宿舎が開かれた。この急造の戦時疎開施設は、当局の指導により、1944年5月1日に白百合高等女学校附属初等科分教場として認可された。そして5月1日から児童・生徒の疎開が開始された。強羅への疎開児童は約20名、総勢50名ほどであったが、収容し切れない児童は山梨県甲府市の栄和女子学院(現・山梨英和学院)の寄宿舎などに分散して疎開した。別荘での寄宿生活が始まるが、食糧不足は深刻であり、燃料の薪も生徒が山から背負ってくるような状況で、ひもじさを抱える生徒たちの食事の心配などでスールたちの苦労も並大抵ではなかった。1945年(昭和20年)、東京空襲により九段の本校の校舎が全焼。強羅に疎開していた児童・生徒・スールたちは現地で8月15日の終戦を迎えた。
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