戦時歌謡・軍国歌謡
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戦争の影は否応なく流行歌の世界にも影を落とし始めた。軍歌は兵士を鼓舞させるために軍隊が作ったものや兵士の間で歌われたものをさす。軍国歌謡は新聞社やレコード会社が企画し、戦時体制などのプロパガンダを歌い、国民の戦意高揚を図ったものである。戦時歌謡は、戦争の時期の流行歌と軍国歌謡を合わせた意味をもつジャンルの名称である。1932年(昭和7年)の爆弾三勇士の件を先駆とする。 1936年6月1日「国民歌謡」がNHKで開始された。人気曲はレコード化されて大ヒットし、「朝」「椰子の実」「春の唄」など今日も愛唱されている作品があるが、「愛国の花」・「隣組の唄」「めんこい仔馬」「国民進軍歌」など明らかにプロパガンダ的要素の強い作品も多かった。 昭和12年(1937年)の「露営の歌」の成功に伴い、このような戦争賛美・国威発揚を目的とした歌が徐々に増え、流行歌の音楽世界を蚕食し始めた。「忘れちゃいやよ」・「裏町人生」などのヒット曲が発売禁止になり統制が厳しくなった。昭和15年の「皇紀二千六百年記念」による国を挙げた記念事業も、それに拍車をかけ、人気歌手は戦地に慰問に行くことが多くなった。しかし、開戦前までは上原敏の「上海だより」「声なき凱旋」・近衛八郎の「ああ我が戦友」・音丸の「皇国の母」など兵士の望郷の念や戦友への思い、留守家族の気持ちを歌った叙情的な曲も多かった。また塩まさるの「九段の母」のように、一見すると戦時体制を讃美する内容であるが実は違う、というギミックが入っている歌もあった。これらの戦時歌謡はほとんどの場合、他の流行歌と共通の作詞家・作曲家によって作られたが、勇ましい作風を持つ作曲家が選ばれ、古関裕而や江口夜詩が代表格となった。一方、服部良一のようにモダンな作風の作曲家は不遇であった。 軍国歌謡がそうでない歌謡に対して決定的に優勢になったのが、昭和16年(1941年)の太平洋戦争勃発である。これにより国内は戦争一色の状態となり、流行歌も戦時歌謡一色となって、叙情的な戦時歌謡は「女々しい」と歌唱が禁止され、その統制対象は明治時代に作られた軍歌にまで及ぶこともあった。高峰三枝子の「湖畔の宿」などの抒情歌が「女々しい」と発禁処分になる状況となった。流行歌の世界に「前線の戦い」と「銃後の守り」、そしてプロパガンダを叫ぶ歌ばかりがあふれた。昭和18年(1943年)頃になると、戦況の厳しさに比例して戦時歌謡も凄惨な内容のものに変わって行く。「新雪」「高原の月」「勘太郎月夜唄」などがわずかながらも作られた。
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