戦時期の地政学
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/08 14:59 UTC 版)
1930年代後半以降、日本が総力戦体制に入ると、地政学は国策迎合的な運動としての側面を持ち始める。柴田陽一は、いわゆる「南洋」地域と日本を一体の概念として捉えることが、従来の日本の思想の援用だけでは難しかったこと、国内においては1920年代に制度化された、若い学問である地理学が、戦時期において地政学的言説にアイデンティティを求めたことがこの動きの背景にあると述べている。 小牧実繁は陸軍参謀本部の高嶋辰彦の依頼を受け、1938年に総合地理研究会を創設し、地政学の研究を開始した。小牧は1940年に『日本地政学宣言』を上梓し、当時日本に輸入されていたドイツ地政学の思想はヨーロッパ特有の覇道主義に貫かれているとし、それとは異なる、皇道を指導理念とする日本流の独自の地政学を追求しようとした。『日本地政学宣言』をはじめとする彼の著書は7万4500部を売り上げたほか、小牧は大日本言論報国会の理事としても活動した。高木彰彦はこれを指して「地理学エリートによる大衆の扇動」であると評した。 また、飯本信之はみずから努めていた文検の出題仲間や東京大学の同窓生に声をかけ、海軍中将・上田良武を会長として1940年に日本地政学協会を発足した。また、彼らは帝国書院より出版されていた文検受験誌『地理歴史教育』を改組して機関紙『地政学』を発刊した。同誌は1942年から1944年まで刊行されたが、その内容には、教師向けの地誌学的内容や、地政学概念の解説が多いことに特色がある。同協会の評議員であった江沢譲爾は、地政学の国土計画や自然地理学を重視する側面に関心を持ち、経済地理学の空間概念に地政学の動態的・計画論的側面を取り込もうとした。
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