日本交通の設立について
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「日本交通 (東京都)」の記事における「日本交通の設立について」の解説
設立の経緯 第二次世界大戦時に政府の交通統制を受けて、1944年11月に警視庁から「都内約4500台のハイヤー・タクシーを四社に統合し、1社1000台を確保する」という通達(旅客自動車運送事業統合要綱)が出されたことによる。 当時は、業界最有力であった京成電気軌道(現在の京成電鉄)の後藤圀彦社長が大がかりな業者吸収に着手していたが、当時共に単独で企業統合を行いながらも行き詰まっていた川鍋と東急とが手を携える形で、11社1個人による新会社設立を果たす。 1945年7月より11事業者が共同経営を開始、1945年8月には協心相互自動車(株)も参加した。日本自動車交通設立母体各社 日東自動車(株)・東京タクシー(株)・高輪自動車(株)・日本相互タクシー(株)・東芝自動車(株)・鐘ヶ淵自動車(株)・帝国自動車(株)・東京安全交通(株)・錦興自動車(株)・鶴野定助<個人>・扇自動車(株)・協心相互自動車(株) 統合の経緯に関しては、川鍋側と東急側で若干認識が異なっている。 統合のキーマンは川鍋であるが、実際は川鍋が大東急の力を借りて統合したものである。このため代表者として社長には川鍋秋蔵が就任して経営権を握るものの、会長職には初め東京タクシーの品川主計、続き東急副社長の立花栄吉と東急側の人間が座り、実質的に主導権は東急にあった。これは出資比率も関係し、共同経営者の出資持分の大半を日交成立時までに東急が肩代わりしたのがその理由である。 1947年末頃には、川鍋側と東急側の対立による川鍋排斥運動があったという。しかし川鍋秋蔵は五島慶太にその手腕を見込まれており、五島自身「実際に同社を執り仕切っている川鍋が自らオーナーとなって経営した方が良い」と判断。1951年、持株の大半を川鍋に譲渡し、川鍋側へ正式に経営権が移された。 この一件に関して、当時の日交の業績から周囲より「五島が手放すには惜しい会社」と言われた。現在の日交社史等の記述が川鍋寄りなのはこのためである。 「大日本帝国」 同時期に成立した大和自動車交通、帝都自動車交通、国際自動車の頭文字から、「大日本帝国」と通称される。これは東京大手四社の意味も表し、四社共通カラーリングであるレモンイエローに赤帯、球型行灯、四社共通チケットなど「東京四社営業委員会」を通じて営業的にも歩調を合わせている。 東急グループ・同業他社との関係 歴史的な経緯から日交グループ形成後も東急グループの一員として列していたが、2000年頃には資本関係を解消し、東急グループからは完全に独立している。 また、同じ東急をバックボーンとして戦時統合で発足した神奈川都市交通とは資本・人事・営業面などでほぼ関係が無い。箱根地区では日交が進出した1951年の2月に箱根観光自動車を設立して競合。東京地区でも1950年8月に日本都市交通を設立して都内進出を図るも、1954年6月に業績不振で荏原交通に譲渡して一度撤退。1960年11月に都南交通の開業により都内再進出を果たし、以降競合関係となる。一方、日交は2012年に相鉄ホールディングスから相鉄自動車を買収。日本交通横浜と改称し神奈川都市交通の本拠地・横浜に逆進出。結果、相互の地盤で競合関係となった。 近畿地方、山陰でタクシーやバスを運行する日本交通 (大阪府)、日本交通 (鳥取県)は同名ながら別系列の会社である(オーナーは澤家)。同社グループの高速路線バスが東京都内に乗り入れるために混同されるが、タクシーチケット提携程度で他に資本関係などはない。2014年3月、日交は大阪市に「東京・日本交通」を開業したため、「桜にN(川鍋)」と「楕円に『日交』(澤)」の東西日交が近畿圏で競合関係となった。
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