戦時色が強まる共楽館
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昭和に入っても共楽館を会場として大正期と同様、職員の教化や精神修養を目的として行われた講演活動が盛んに行われていた。中でも昭和に入ると修養団、そして国柱会の外郭団体である明治会の講演活動がしばしば見られるようになった。流汗鍛錬、同胞相愛を唱えて社会教育活動を行う修養団は、日立鉱山の労務担当者にもその活動の推進者が現れ、共楽館で公演会、支部大会などを開催した。また明治会は主として尊王、愛国思想を唱え、やはり共楽館で講演会や支部大会を開催した。 また修養団、明治会とともに、昭和期に入って共楽館を会場とした活動を盛んに行うようになったのが在郷軍人会であった。日立鉱山など日立町の在郷軍人会分会は、共楽館を会場としてしばしば講演会を行い、更には映画上映会、陸軍軍楽隊の演奏会、銃剣術競技会といった催し物を行った。そして上海事変、満州事変後の1932年(昭和7年)9月8日から10日にかけて、共楽館を会場として上海満州事変展覧会が開催され、共楽館での一般開放講演として同月15日には満州事変記念講演を午前中に小学生高学年、中学生向け、午後からは在郷軍人及び一般向けに行った。 1934年(昭和9年)1月には共楽館を会場として日立鉱山国防研究会の発会式が行われた。会員は日立鉱山のほぼ全従業員に当たる約3,500名であり、開会式においてトーキー「非常時日本」を公開し、国防思想の普及を図った。やがて戦時色が強まる中、共楽館の利用も戦時色が濃厚となっていく。1939年(昭和14年)にはこれまで盛大に行われてきた日立鉱山の山神祭の花火は中止となり、祭りの出し物も共楽館などでの従業員慰安のための芝居上演のみとし、これまで祭りに充ててきた経費を国防献金することになった。このような中、共楽館の外観も変化を見せた、1940年(昭和15年)頃、共楽館に火の見やぐらが設けられたのである。1941年(昭和16年)には温交会は鉱業報国温交会に改組され、同年、共楽館で青年団、女子青年団、少年団を統合して「高度国防国家建設のため、日立市内の青少年の教育訓練の徹底を図る」ことを目的とした日立市青少年団の結成式が行われた。 日本が本格的な戦争状態に入っていた1942年(昭和17年)の共楽館の利用状況を見てみると、ハワイ爆撃ニュース映画上映、大東亜戦争ニュース映画会、大東亜戦争講演会、時局講演会と映画会、日立鉱山厚生部、日立警察署共催の防諜映画会など、戦意高揚、戦時意識高揚を目的とした催しが目白押しであった。また、戦略物資として重要な銅の主要鉱山であった日立鉱山の従業員は産業戦士と呼ばれ、産業戦士の勤労意欲向上のために著名な一流芸能人たちがしばしば慰問目的で日立鉱山を訪れるようになった。戦時体制化、共楽館はこれまで以上に産業戦士たる鉱山従業員の慰安の場として重要な役割を果たすようになった。 日立鉱山に産業戦士慰問のために訪れた中でも、1941年(昭和16年)9月の市村羽左衛門一行40名と、1942年(昭和17年)6月の尾上菊五郎率いる松竹国民移動劇団一行の来演が最も大規模なものであった。市村羽左衛門の公演は共楽館隣の万城内グラウンドで行われ、共楽館は楽屋として利用され、当時花形役者であった市村羽左衛門の公演は大勢の人々を魅了した。なお雨天時にはグラウンドではなく共楽館で公演が行われる予定であった。そしてやはり歌舞伎界の名優として知られた尾上菊五郎ら一行は、共楽館に超満員の4,000名の観客を集めた。 その他、戦時体制下に産業戦士慰問で共楽館で公演した芸能人としては、水の江滝子、片岡千恵蔵、原健作、オペラ歌手の藤原義江らがいた。また1944年(昭和19年)1月には大映の映画スターが2班に分かれて来演したとの記録が残っている。そして歌舞伎俳優も1942年(昭和17年)2月に共楽館に緞帳が完成し、澤村源之助一行が緞帳完成披露公演を行っており、その他にもしばしば演劇団、舞踊団、歌手らが産業戦士慰問公演を行っていた。 戦時体制下にあっても職員、家族による素人演芸会は盛んであったという。1942年(昭和17年)頃には共楽館で日立鉱山の各職場、社宅の出し物が行われた後、舞台上にリングを作ってボクシングを行ったこともあった。そして1945年(昭和20年)の7月、戦況が悪化する中で恒例の山神祭を実施するかどうかが検討されることになった。実際問題、もはや祭りを行えるような雰囲気ではなかったものの、日立鉱山の幹部は予定通り実施するように指示した。結局山神祭は開催されることになり、一流芸能人を含む32名を東京から日立に呼び寄せ、そして映画も4本用意して、共楽館を会場として例年通り山神祭を実施した。ところが山神祭の終了後、アメリカ海軍第三艦隊による艦砲射撃が日立を襲った。幸いなことに東京から呼び寄せた芸能人たちには被害は無かったものの、恐怖を味わった芸能人たちから「あんな恐ろしい思いをしたのは初めてでした、もう二度と日立へは行く気にはなれません」と言われてしまった。 日立は1945年(昭和20年)6月10日と7月19日に空襲、そして7月17日に前述の艦砲射撃を受けた。日立空襲によって日立鉱山、日立製作所は甚大な被害を受け、日立の市街地もほぼ全域が焦土と化し、日立の劇場、映画館は共楽館、本山劇場、諏訪会館の日立鉱山の施設以外全て焼失した。共楽館も屋根に2本の焼夷弾が命中したと伝えられているが、奇跡的に焼失を免れた。
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