官衙の成立と変遷
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/18 14:13 UTC 版)
久米官衙の成立の起源については、2つの説が唱えられている。一つは、舒明天皇と斉明天皇の伊予行幸(それぞれ639年と661年)を機縁とし、行宮を含む官衙が建設されたとする説。もう一つは、ミヤケ、すなわちヤマト政権の直轄地の役所として建てられたとする説である。 本遺跡は、水田耕作のためにかなり削平されており、遺物の出土はあまり多くない。したがって、遺構の年代決定には困難をともなうが、おおむね以下の3期にわたる変遷が想定されている。 1期は、方一町の区割が成立する以前の時期で、「政庁」のみが存在していた時期であり、7世紀前半に相当する。 2期は、方一町の区画と、これに介在する幅3 - 4メートルの道路からなる整然とした区割が成立した時期で、7世紀中頃から第4四半期に至る時期である。この時期に正倉院や政庁南東官衙が成立し、やや遅れて回廊状遺構、回廊北方官衙も成立した。 3期は7世紀第4四半期から8世紀以降に相当する。回廊状遺構が廃されて来住廃寺が創建され、正倉院の敷地が南方に拡充された。
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