成立の起源
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南北朝時代の公家である北畠親房は、その著書『二十一社記』のなかで二十二社の成立について、皇城鎮守神として二十二社を定め置き、諸国までは遼遠なので臨時の祈祷等は二十二社に奉幣したのだと述べた。 その後、江戸時代においても二十二社の研究は進められたが、二十二社の選定や尊崇の具体的考察が行われるのは近代に入ってからである。大正時代に発表された『神祇史綱要』掲載の「二十二社の発生」では、二十二社制度の起源を次のように解説している。一般官社制度の外に立ち、朝眷に浴して卓越した位置に居た神社があり、延喜年間以降に万事が先例古格により律せられる因襲的傾向が著しくなると、その地位が慣例化・固定化したとする。加えて地方と中央の連絡が完全ではなかった当時、遠隔の諸大社に奉幣を行う余裕が無かったことから、京を中心に付近の国々に限って祈年穀奉幣するなど待遇が定まって行き、最後は白河天皇御代の永保元年(1081年)に、当時その地位にあった神社22か所が地位を固定されて「二十二社」と呼ばれるようになったのだとしている。 昭和40年(1965年)に発表された『摂関時代における神社行政 -二十二社の成立を主題として-』では、『神祇史綱要』の「二十二社の発生」をさらに補完・詳述し、まず二十二社発生の前段として、当時の神祇行政について述べている。 律令制では、祈年祭などの祭事に朝廷から奉幣をする神社が、『延喜式神名帳』などにより多数定められていたが、律令制の衰退などにより次第に少数の特定の神社にのみ奉幣されるようになった。『摂関時代における神社行政 -二十二社の成立を主題として-』ではこの過程について、平安時代前半期では正史に多数見られた官社撰定および神階奉授の記事が平安時代後半に入ると激減し、恒祇や奉幣記事も次第に範囲を狭めて皇都周辺の大社名社に限定されるようになって行ったと指摘し、さらに平安時代後半の律令体制の弛緩とあいまって中央の神祇官が一部の名社を重視し始めることに比例し、地方国司の祠社の管掌もしだいに形式化・疎略化する動向を示した、と述べている。 同書では、律令体制弛緩の証左として、『本朝文粋』の延喜14年(914年)4月28日上奏の三善清行の意見封事にある、神祇官の幣帛受納に参集した諸社の祝部が、幣帛の絹や神酒、神馬を着服し、一人も幣帛を本社に捧げて祈請する者がいなかったとする記述。『日本紀略』の天暦2年(948年)11月22日の条にある、新嘗祭において諸卿の不参が多く神事が遅滞した記述。さらに、このような神事闕怠に対する禁令がしばしば出されていることなどを挙げている。 さらに同書では、社殿の造替、神事の厳修を標榜する律令的神祇行政の再編成を行う一方で、既に神階が極位に達していた諸社が皇親の参詣や臨時奉幣を仰いだために、畿内周辺の名社を偏重する傾向が進んで行ったと述べ、その遠因は桓武天皇の平安京遷都にあるのではないかと推察している。すなわち、平安京遷都後、皇室の祖神、外戚神と仰がれ、有力氏族に奉斎され、民衆に除災招福の利益を与える名社として特別の崇敬を得た諸社が、京周辺にあって顕著な発展を遂げたのだと、その理由を推測した。 同書によると、これら幣帛を受ける名社が次第に固定化されていく様子は、『日本紀略』を通覧した際に散見される、数社同時奉幣記事に見ることが出来るとしている。
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