玉葉集編纂の経緯
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/22 10:09 UTC 版)
皇太子時代の伏見天皇に仕え始めるようになった京極為兼は、言葉の解釈や故実の詮索に明け暮れ、枝葉末節に過ぎない知識のひけらかしが蔓延し、多くの規則に縛られた当時の和歌のあり方に大きな疑問を持っていた。和歌とは何か、歌を詠むべき態度、よい和歌とはどのような和歌であるかを真剣に考えるべきであると考えた為兼は、伏見天皇側近の文芸愛好グループに参加するようになった後、『為兼卿和歌抄』を著し、言葉で心を詠む当時の伝統的な和歌のあり方を否定し、事物に触れる中でおのづから動いていく心のままに歌を詠むべきで、その表現方法も自由であると主張するようになった。 朝廷が大覚寺統、持明院統の両統迭立の時代の中、為兼の主張は伏見天皇を始めとする持明院統宮廷に受け入れられ、和歌の強固な伝統を打破し、新しき和歌を創造する挑戦が始まった。そのような中、弘安10年(1287年)、大覚寺統の後宇多天皇は譲位し、伏見天皇が践祚した。持明院統の治世となり、伏見天皇は京極為兼が主導する新たな和歌観に基づく勅撰和歌集撰集を考えるようになった。
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