侍従武官長として
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1944年(昭和19年)から1946年(昭和21年)まで侍従長を務めた藤田尚徳は、次のように述べている。 宇佐美は気骨のある人物で、侍従武官長として職務を遂行するにあたり、陸軍中央の言いなりには動かなかった。 陸軍中央は意に沿わない宇佐美を更迭し、その後任には、温厚な性格で知られた蓮沼蕃を起用した。 侍従長の藤田と、宇佐美の後任の侍従武官長である蓮沼は、同時期にそれぞれの職にあったが、藤田は、昭和19年 - 20年の最悪の戦況を、蓮沼が昭和天皇に正しく伝えていなかったと批判的に評している。 戦後の皇室ジャーナリストである河原敏明は、次のように述べている。 1939年(昭和13年)、ノモンハン事件の3か月前、海軍の軍令部員が満州を視察し、関東軍が満ソ国境に25個師団を配置して戦闘態勢を整えていることを知り、軍令部総長の伏見宮博恭王・元帥海軍大将に報告した。驚いた伏見宮は直ちにそのことを昭和天皇に奏上した。 この件を陸軍から聞いていなかった天皇は、侍従武官長の宇佐美を呼び、陸軍中央(出典では「陸軍省」と記載)に、事実関係と意図を確かめるよう命じた。 しかし宇佐美は陸軍中央と連絡することもなく、天皇が望むような適切な対処をしなかった。 そのことを天皇から聞いた木戸幸一内大臣と百武三郎侍従長は、宇佐美に面と向かって苦言を述べたが、宇佐美は「どうも、こう陸軍と陛下の御意志との間に距離があっては、困ったものだ」と放言した。 宇佐美は侍従武官長を更迭された。侍従武官長を退任する際には天皇から慰労の意味で記念品が下賜される例であったが、宇佐美への下賜品は異例なほど粗末なもので、また、宇佐美にかけられた慰労の言葉はごく短いものであった。
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