侍従武官長時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/10 23:50 UTC 版)
満洲事変後、国際連盟の中で未だ満州に関する処理で話し合いが続けられている最中にも関わらず関東軍が中国と旧満州の境に兵を進める熱河作戦について、昭和天皇は国際連盟の反応を懸念してこれを中止したいと考え、「統帥権最高命令によって作戦発動を中止せしめ得ざるや」と作戦の中止を奈良に打診した。これに対し奈良は「それは閑院宮・陸軍参謀総長がいらしてからに」とこれを受け流した。しかし昭和天皇は尚、諦めず「さっき聞いたことについてはどうだ」と側近に書かせた手紙を奈良に送ったが、奈良は参内せず「天皇のご命令をもって作戦を中止しようとすれば紛擾を惹起し政変の原因になるかもしれず」と手紙で返答している。こうして奈良は熱河作戦を天皇が強権を以って止めれば陸軍によって首相が殺され五・一五事件と同じような事態が起こる可能性を示して昭和天皇を脅迫し、統帥最高命令による作戦中止命令の発動を阻止することに成功した。 奈良はその以前からも関東軍の独断専行を懸念、これを制限したいという昭和天皇の意向を拒絶したり、上海からの陸軍撤退の下問を受け流す等、世論の陸軍支持の流れを重視し、天皇の国際協調・穏健路線を否定・非難する立場から度々天皇の打診を拒否して陸軍および陸軍参謀本部の判断と行動に関する昭和天皇の干渉を遮った。 侍従武官長勇退の際には後任に満州事変勃発時の関東軍最高司令官であった本庄繁を推薦している。昭和天皇は本庄がかつて「満州事変は関東軍による謀略と聞くがどうか?」との自分の質問に対して「断じて軍の謀略ではありません」と答えたことに根ざした不信感から本庄の侍従武官長就任を何度も拒否したが、奈良は天皇の意向を無視して本庄を着任させている。 退役後は大日本武徳会会長、枢密顧問官、軍人援護会会長を歴任し、昭和21年(1946年)8月、公職追放となった。昭和27年(1952年)、追放解除。昭和37年(1962年)、94歳で死去。極東国際軍事裁判では特に起訴されていない。
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