軍施設の進出と戦後の転用
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/15 23:15 UTC 版)
「相模野台地」の記事における「軍施設の進出と戦後の転用」の解説
東京に近く、広大な平坦地が広がっていることから、昭和初期(1930年代以降)に軍関係の施設が相次いでこの地域に進出した。陸軍の士官学校(座間町・新磯村、現座間市・相模原市。1937年)、相模陸軍造兵廠(大野村・相原村、現相模原市。1938年)や、海軍の厚木飛行場(大和町・渋谷町・綾瀬村、現大和市・綾瀬市。1942年)、高座海軍工廠(座間町、現座間市。1944年)などが代表的なものである。主に北半部には陸軍、南半部には海軍の施設が進出した。 陸軍造兵廠の進出とともに、北部の大野村・相原村・上溝町(いずれも現相模原市)にまたがる区域で同施設を中核に大規模な都市計画に基づく区画整理事業が行われた(軍都計画)。さらに陸軍の主導の下、これらの陸軍施設が集中する北部の上溝町、座間町ほか6村の大規模合併によって1941年に相模原町が発足した。1945年の敗戦により「軍都」の建設は挫折し、相模原町からは1948年に座間町(現座間市)が分離したが、これが相模原市(1954年市制施行)が戦後発展する基盤となった。 戦後、旧軍施設は一部が進駐軍に接収され、一部は学校や工場などに転用された。さらに陸軍士官学校の演習地のように引揚者の入植地となったところもあった。接収された施設の中にはそのまま在日米軍の施設とされたものが多く、一部は後に日本側へ返還されたが、相模総合補給廠(旧陸軍造兵廠)、キャンプ座間(旧陸軍士官学校)、厚木飛行場などのように現在も主要施設として使用されているものもある。
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