乾岔子島事件
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乾岔子島事件(かんちゃずとうじけん)は、1937年(昭和12年、康徳4年)6月19日黒竜江(アムール川)流域における黒河下流の乾岔子と金阿穆河(ちんあむほう)両島で起きた[1]ソビエト連邦と満州国間の国境紛争である[2]。実質的には日ソ国境紛争であった。
- ^ 外務省 1937 p.18
- ^ a b c d e f 『東京朝日新聞』1937年6月27日付朝刊 3面
- ^ 外務省 1937 pp.21-22
- ^ 外務省 1937 p.22
- ^ 外務省 1937 pp.24-25
- ^ 外務省 1937 p.25
- ^ 特に事件の直前にはソ連の国内不安を和らげるためにソ連の国民の関心を対外問題にそらすことを意図して国境紛争による緊張を高めているかのごとく観測されていた(『東京朝日新聞』1937年6月27日付朝刊 3面)
- ^ 外務省 1937 pp.18-20
- ^ a b 外務省 1937 p.20
- ^ 外務省 1937 pp.20-21
- ^ 外務省 1937 p.21
- ^ 『東京朝日新聞』1937年7月5日付朝刊 3面
- ^ a b 『東京朝日新聞』1937年6月28日付朝刊 2面
- ^ 『東京朝日新聞』1937年6月29日付朝刊 2面
- ^ a b 『東京朝日新聞』1937年7月1日付朝刊 2面
- 1 乾岔子島事件とは
- 2 乾岔子島事件の概要
- 3 その後
乾岔子島事件
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詳細は「乾岔子島事件」を参照 1937年(昭和12年)6月から7月に、ソ満国境のアムール川に浮かぶ乾岔子(カンチャーズ)島周辺で、日ソ両軍の紛争が起きた。 アムール川の国境はアイグン条約によって全ての島がロシア帝国領と定められていたが、水路協定では航路が乾岔子島よりソ連領側に設定され、国際法の原則や居住実態からも日満側は同島を満州国領とみなしていた。ソ満間の水路協定の改定交渉は前年に決裂しており、ソ連は、1937年5月に水路協定の破棄を通告した。6月19日、ソ連兵60名が乾岔子島などに上陸し、居住していた満州国人を退去させた。これに対して日本陸軍参謀本部も関東軍に出動を命じたが、石原莞爾少将の進言などにより、6月29日に作戦中止を命じた。同日に外交交渉によってソ連軍の撤収も約束された。 ところが、6月30日にソ連軍砲艇3隻が乾岔子島の満州国側に新たに進出したため、日本の第1師団が攻撃を開始し、1隻を撃沈した。再び現場は緊迫したが、それ以上の戦闘とはならず、7月2日にソ連軍は撤収した。
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