現場の経過
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/12/06 01:49 UTC 版)
事件発生前から乾岔子と金阿穆河両島附近のコンスタンチノフスキ水道、ボヤールコフ水道附近にはソ連の砲艦砲艇が多数集結していた。 6月19日午前4時、奇克特上流約25kmの乾岔子島西北側にある満州国航路標識168号附近にモーターボート2隻によりソ連兵20名余りが越境上陸し、その航路標識附近にある点火夫宿舎の看板を強奪すると共に点火夫に退去を強要、ついで168号標識より下流約8kmにある175号標識の地点に移動して同標識附近の点火夫及び附近の採金苦力を追放、午前9時30分頃黒竜江のソ連領側にあるノウオペトロウスキーに引揚げた。同日午前11時頃ソ連領側コンスタンチノフスキの対岸の満州国領側金阿穆河島にソ連兵が上陸すると附近の採金苦力40名に退去を強要するとともに一部の苦力を拉致した。 事件を知った満州国軍及び満州国警察官十数名が乾岔子島に入って現地調査中の20日午前6時20分頃砲艦一隻と警備艇一隻に分乗したソ連兵約30名が乾岔子島に上陸すると重軽機関銃による援護と共に攻撃を開始したため満州国軍は任務を終了して後退した。 21日朝からソ連兵約40名が再度乾岔子島に上陸して陣地を構築し、一方ソ連の警備艇2隻はコンスタンチノフスキ対岸の東家地営子に不法越境すると満州国人一名を拉致、22日午後には乾岔子島の航路標識169号附近で五、六名のソ連兵による散兵壕の構築、24日正午頃には金阿穆河島を占拠しているソ連兵約30名が確認された。その後、金阿穆河島にはソ連農民が多数上陸して土嚢、塹壕等の構築を行った。 満州国外交部は繰り返されるソ連国境部隊の不法占拠と満州国人の拉致事件に関してソ連政府に対し再三抗議を提出しソ連側の誠意ある回答を要求したが6月28日に至ってもソ連は何らの回答を行わずに事件現場には砲艦十数隻を集結させて満州国側を威嚇する態度を示したため、同日満州国外交部の北満外交部特派員を通して在哈爾濱ソ連総領事に対しソ連側の回答を督促するとともに、再度口頭で事件責任者の処罰並びにソ連兵の満州国領内よりの撤退を要求した。 30日午後3時頃、ソビエトの砲艦三隻が乾岔子水道の南側に侵入すると突如満州国領の江岸で水浴中であった日本と満州国の兵に向って発砲を開始したため、日本軍・満州軍も自衛の為応戦し、その内一隻を撃沈、別の一隻には大きな損害を与え、残りの一隻を逃走させた。日本と満州国両政府は直ちにソ連に対して抗議を行った。 重光大使とリトヴィノフ外務人民委員との折衝の結果、7月2日、ソ連国防人民委員部は乾岔子島及び金阿穆河島にいたソビエト哨兵並びに両島附近に集結中の砲兵隊、艦艇の撤収を命じ、4日までにほとんどの撤収が終了した。
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