賠償と国交の回復
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/02 02:15 UTC 版)
ビルマとの間には1954年11月5日に「日本とビルマ連邦との間の平和条約」と賠償および経済協力協定を締結し、翌年4月の発効により正式に国交関係を確立した。この賠償に際し、日本との合弁事業によって国家の振興を図ることが検討され、戦争により破壊された鉄道、通信網の建設、内陸水路の復旧や、ラングーン港などの沈船の引き揚げ、インパールの南方100マイル程の地点に発見されたカレワ(英語版)にある炭田の開発、戦争で破壊された亜鉛製練所などが第21国会参院通商産業委員会にて検討されている。結局日本は2億ドル(720億円)の戦争賠償と5000万ドル(180億円)の経済協力をビルマへ供与した。 戦争後、主要国でビルマと最も友好的な関係を維持したのは、ビルマの戦いに敗れた日本だった。ネ・ウィンをはじめとするBIA出身のビルマ要人は日本への親しみを持ち続け、クーデターによって大統領となったネ・ウィンは訪日のたびに南機関の元関係者と旧交を温めた。これは南機関の遺産とも言えよう。1981年4月には、ミャンマー政府が独立に貢献した南機関の鈴木敬司ら旧日本軍人7人に、国家最高の栄誉「アウンサン・タゴン(=アウン・サンの旗)勲章」を授与している。 戦後間もない時期に『ビルマの竪琴』がベストセラーとなった。このことについて、馬場公彦は日本人の加害責任を認めながらも、ビルマ仏教の平和思想を身勝手に解釈することで、責任の痛覚からは免れているものと主張している。現在のミャンマーの国定教科書では、戦時下の日本をファシスト、イギリスを帝国主義者と記述している。 1962年にはこの戦いに従軍し虜囚として生活を送った歴史学者の会田雄次が、『アーロン収容所』を刊行した。同書は基本的には創作物である『ビルマの竪琴』と異なり、著者の体験記である。植民地支配の先駆者である英国人の性悪的な面に焦点を当てた内容で、版を重ねてロングセラーとなった。中公文庫の裏表紙[要文献特定詳細情報]では「西欧ヒューマニズムに対する日本人の常識を根底から揺さぶり、西欧観の再出発を余儀なくさせ」たと説明している。
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