第1次マケドニア戦争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/18 21:09 UTC 版)
「ピリッポス5世」の記事における「第1次マケドニア戦争」の解説
ギリシアでの地位を確立したピリッポス5世はやがてアドリア海湾岸部でのローマの影響力を阻害しようと画策する。まず彼は海路よりイリュリアに進攻し、初回はうまくいかなかったものの再度進攻して成功を収め、イリュリアを支配下にする。また第2次ポエニ戦争を利用して紀元前215年にはローマに進攻中のカルタゴの武将ハンニバルと同盟を結び、ローマと対抗していく。しかしながら紀元前211年にローマがアイトリア同盟と同盟関係となるとピリッポス5世の影響力は次第に衰えていき、さらにローマの支援を受けたペルガモンのアッタロス1世の進攻を受けるなど劣勢に立たされるようになった。 劣勢になりつつあるものの、いまだマケドニアは健在でピリッポス5世はにわかに勢力を増してきたアカイア同盟の指導者フィロポイメンに近づいてローマの隙を突いて紀元前207年にはペルガモンの勢力をギリシア本土から一掃、アイトリア地方の宗教的な中心地であるテルムムを陥落させ、アイトリアの諸都市を屈服させ、ローマの息のかかったギリシア諸都市とフォエニケの和約を結び、有利に戦局を進める事に成功した。時勢に乗るピリッポス5世はこれを機にセレウコス朝のアンティオコス3世と共同でまだ若年のプトレマイオス朝の王プトレマイオス5世の支配下にあったエーゲ海地方に進攻するも、マケドニアの攻勢を恐れるペルガモン、ロドスなど他のギリシア諸都市は紀元前201年にピリッポス5世を海戦で破る。この同時期に西方のローマもカルタゴを下していた。
※この「第1次マケドニア戦争」の解説は、「ピリッポス5世」の解説の一部です。
「第1次マケドニア戦争」を含む「ピリッポス5世」の記事については、「ピリッポス5世」の概要を参照ください。
- 第1次マケドニア戦争のページへのリンク