第1次ニューカッスル公爵内閣期
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「ジョージ・リトルトン (初代リトルトン男爵)」の記事における「第1次ニューカッスル公爵内閣期」の解説
1754年にペラムが死去すると、リトルトンは下級大蔵卿を辞任、同年4月に第1次ニューカッスル公爵内閣で王室金庫長官(英語版)に、6月21日に枢密顧問官に任命された。同年4月の総選挙において、自身を後援したベッドフォード公爵が野党に転じるという逆風があったものの、トマス・ピットが財政難によりオークハンプトン選挙区での影響力を政府に譲っていたため、政府とベッドフォード公爵の間で妥協がなされ、それぞれ1議席を指名することになり、リトルトンはそのまま政府側の候補として無投票で再選した。第1次ニューカッスル公爵内閣に対し、リトルトンがテンプル伯爵や大ピットの賛成を得ずに自派の内閣支持を約束したため、リトルトンと2人の関係が悪化し、さらに1755年11月に大ピットが野党に転じたとき、リトルトンがそれに従うことを拒否したため、2人は完全に決裂した。リトルトンは大ピットが野党に転じた理由を「公的な理由を装ってすらおらず、私的にニューカッスル公爵と敵対したためだけだった」と批判し、1755年11月22日に財務大臣に就任したが、同時に大ピットからの激しい攻撃を受けることになった。 リトルトンは1756年1月23日に予算案を議会に提出、5月11日に100万ポンドの追加予算を動議したが、大ピットは前者における減債基金(英語版)を担保に借款する提案を、後者については予算の目的が不明瞭であることを激しく批判した。ニューカッスル公爵は国王ジョージ2世に謁見したときリトルトンを賞賛したが、オックスフォード英国人名事典によると、リトルトンには財務大臣に必要な財政に関する知識が少なく、この任命は不適切とされた。
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