第1次ダービー伯爵内閣
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/12/06 05:17 UTC 版)
「エドワード・スミス=スタンリー (第14代ダービー伯爵)」の記事における「第1次ダービー伯爵内閣」の解説
ホイッグ党政権は首相ジョン・ラッセル卿とラッセルに解任された外相パーマストン子爵の内紛にディズレーリが付け入る形で崩壊した。その後を受けて1852年2月にダービー伯爵が大命を受けた。 第1次ダービー伯爵内閣は大臣・枢密顧問官経験者がわずか3人の内閣で、後は全員新顔だった。そのため「誰?誰?内閣(英語版)」と呼ばれた。 1852年7月の総選挙(英語版)で保守党は議席を伸ばしたが、過半数には今一歩で届かなかったため、11月に議会が始まれば倒閣されることを覚悟せねばならなかった。 10月にオックスフォード大学総長(Chancellors of the University of Oxford)に就任した。 12月には庶民院でディズレーリの予算案が庶民院で否決され、内閣総辞職を余儀なくされた。ピール派のアバディーン伯爵内閣にとって代わられた。
※この「第1次ダービー伯爵内閣」の解説は、「エドワード・スミス=スタンリー (第14代ダービー伯爵)」の解説の一部です。
「第1次ダービー伯爵内閣」を含む「エドワード・スミス=スタンリー (第14代ダービー伯爵)」の記事については、「エドワード・スミス=スタンリー (第14代ダービー伯爵)」の概要を参照ください。
- 第1次ダービー伯爵内閣のページへのリンク