第1次デンマーク戦争
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「カール・グスタフ戦争」の記事における「第1次デンマーク戦争」の解説
カール・グスタフ戦争はこうして開始された。しかし予想に反してスウェーデン軍は迅速で、陸戦に関してスウェーデンは優位の状態であった。ただしスウェーデン海軍はデンマーク海軍の強固な護りに支えられ、首都への上陸は不可能であった。戦争初期、ドイツにおける反スウェーデンの立場を取った神聖ローマ帝国軍とブランデンブルク=プロイセン軍は静観の立場であった。またデンマークの従属国であるシュレースヴィヒ=ホルシュタイン公国もカール10世と婚姻関係にあることから、デンマークへの侵入を黙認した。 一方この年、スウェーデンの海外の植民地は大きな転機を迎えることとなった。スウェーデンの唯一とも言える入植地、ニュースウェーデンは敵対するオランダ軍の侵攻を受け陥落。これによって、スウェーデンの植民地は事実上喪失した。この頃、モスクワ大公国も属領フィンランドへ侵攻し、一時的ながらスウェーデン東部領土を占領することに成功した(1661年にカディス条約により返還)。 カール10世率いるスウェーデン軍は、対デンマーク戦でデンマーク領のユトランド半島を制圧した。開戦からわずか数か月のことである。デンマークの首都は、1654年以降ユトランド半島のオーデンセに置かれていたが、カール10世の侵攻を見たデンマーク王フレデリク3世は、対岸のシェラン島にあるコペンハーゲンに戻した。防衛するには余りにも脆弱すぎたからである。シェラン島であれば、スウェーデン軍の上陸は事実上不可能であると思われた。 しかしデンマーク側に突如、青天の霹靂が訪れた。1657年から翌1658年にかけて大寒波がデンマークを襲ったのである。シェラン島とユトランド半島は凍結し、デンマーク艦隊も氷に閉ざされた。カール10世はこれを好機と捉え、侵攻を断行した。これは後年「氷上侵攻」と呼ばれる戦術であった。これは大いなる賭けであったが、カール10世は躊躇わなかった。1658年1月30日、スウェーデン軍の第一陣が海峡を渡り切った。一部の人馬は割れた結氷に飲み込まれたものの作戦は成功を収め、2月5日に全軍が島々を経由してシェラン島上陸に成功した。そしてスウェーデン軍は首都コペンハーゲンを包囲した。デンマーク軍は戦意を喪失し、フレデリク3世は降伏した。この時カール10世は、デンマークをスウェーデンに併合しようとしたが、イングランドとフランスが説得に入り、カール10世はこの時は譲歩し、デンマークと和睦交渉に入る。 2月26日、デンマークとスウェーデンは、ロスキレ条約を結び和睦した。この条約でデンマークはスウェーデンに屈服し、ボーンホルム島とスコーネ地方、ノルウェーのトロンハイム地方を割譲した。これらの割譲により、デンマークの人口はスウェーデンの半分に減少することとなった。しかも肥沃な穀倉地帯であったスコーネの割譲は、デンマークにとって痛手となった。この結果、スウェーデンが北欧の超大国の座を占めることとなった。しかし北欧以外に目を向けると、スウェーデンの状勢は好転したとは言えなかった。新大陸の植民地を失い、スウェーデンは植民地戦争には敗れた。ポーランドでは戦闘は収まったが軍事的には敗北し、フィンランドやリヴォニアでは、ロシアの占領状態が継続していた(1658年末の休戦協定によって交戦状態からは免れていた)。また、カール10世は国内における治政はまま成らず、北方戦争終結には程遠い状況であった。
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