第3次パホン伯内閣
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1934年9月22日 - 1937年8月9日 ラーマ7世はパホン伯政権に対して9月20日は要求を飲まないと退位するとした書簡をパホン伯政権に対して送りつけた。これはパホン伯やプリーディー等の旧人民党勢力が築き上げた政権基盤に影響を及ばす物であった。このためパホン伯は1934年12月12日から翌年1月31日まで4回におよぶコンタクトをラーマ7世と取り意見を交換した。その後1月31日にパホン伯はこの書簡にかんする秘密会議を開いたが結局はとうてい受け入れられないと判断、拒否した。結果、3月2日にはラーマ7世は退位声明を発表、退位した。これはパホン伯政権にとって大いなる痛手であったが、すぐさまアーナンタマヒドン親王(ラーマ8世)を王位に就け、「国王に承認されざる政府」という汚名を着せられる事を回避した。 一方、同年にラーマ5世(チュラーロンコーン)時代から続いた基本法典の整備が完了したこれによりタイは不平等条約改正に一歩近付いた。 1937年7月27日、民選議員(選挙によって任命された議員)であるリエン・チャイヤカーンが王室財産局の管理する土地などが旧人民党勢力に安く転売された事に対して講義し、パホン伯内閣を辞職に辞表を提出させたこれにより。第3次パホン伯内閣は終わりを迎えた。この後人民代表院(下院議員)は王室財産局の不正な土地転売に関わったとされた摂政団を一旦辞任させ、再び同じ摂政団を8月4日任命した。これにより、第4次パホン伯内閣が成立した。
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