第3次ドイツ南極探検隊
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/06/07 15:16 UTC 版)
「ノイシュヴァーベンラント」の記事における「第3次ドイツ南極探検隊」の解説
第3回探検隊を支援したのはナチス党政権下の四カ年計画全権責任者であるヘルマン・ゲーリングと四ヶ年計画庁の局長であるヘルムート・ヴォールタート(ドイツ語版)であり、その背後には経済的な理由があった。当時のドイツでは油脂の生産が急増しており、その原料として鯨油を大量に消費していた。鯨油は、石鹸とマーガリンといった重要な生活必需品や、軍事上重要なニトログリセリンの生産に欠かせない資源であったが、その輸入をノルウェーに頼っていた。当時ドイツはノルウェーの鯨油輸出先の第2位であり、年に20万トンを購入していた。欠かせない資源を輸入に頼ることの脆弱性のほかに、間もなく戦争に入るかもしれないドイツにとっては、外貨準備を鯨油輸入で流出させることは大きな問題であった。この「鯨油ギャップ」を埋めるため、自前の捕鯨船団を南極海で操業させることがドイツにとって急務であり、イギリスなどに干渉されない安全な基地となる港を南極大陸の東経20度から西経20度の間で探し出すことが探検の目的であった。また将来において南極大陸に海軍基地を置くことも意図されていた。このため、この南極探検は極秘とされた。 アルフレート・リッチャーが南極探検隊の隊長に任命されたのは1938年7月のことで、その後数か月という短期間で生物学者、海洋学者、地磁気学者といった分野の科学者や探検隊員を組織しなければならなかった。「パサート(Passat、貿易風)」および「ボレアス(Boreas、北風)」と名付けられたドルニエ・ヴァール水上機2機と、ルフトハンザの大西洋郵便航路用に使われていたカタパルト船「シュヴァーベンラント」がこの探検のために借用された。1938年12月17日、探検隊員33名と船員24名を乗せたシュヴァーベンラント号はハンブルクを出港し、1939年1月19日に南極大陸のプリンセス・マーサ・コースト(en:Princess Martha Coast 1930年にノルウェーのヒャルマー・リーセル=ラルセン(英語版)が探検し、1939年にノルウェーが領有を宣言した地域)に到達した。探検隊は海岸沿いの海氷の上にドイツの国旗を立て、船の名にちなんでこの地をノイシュヴァーベンラントと名付けた。 探検隊はその後仮設基地を作り、いくつかの班に分かれて数週間にわたって海岸沿いを徒歩で移動し、丘など目立つ地理的特徴を記録していった。また「パサート」と「ボレアス」の2機の水上機が内陸部へ7回にわたる調査飛行を行った。この時、飛行経路の要所に、長さ1.2メートルのアルミニウム製の矢が投下された。この矢には30センチメートルの鋼製の矢尻、鉤十字をエンボス加工した3つの矢羽が取り付けられていた。この矢の投下は、出発前にオーストリアのパステルツェ氷河で試験されている。さらに、ドイツにとって関心の高い地域に対して8回の調査飛行が行われ、その際にはカラー写真も撮影されている。これらの調査飛行で11,600枚の空中写真が撮られた。その多くは後の戦災で失われたが、残りのうちいくつかは戦後になってリッチャーが出版している。シルマッヒャー・オアシス(英語版)、南極内陸部の雪のない露岩地区で、現在インドのマイトリ基地とロシアのノヴォラザレフスカヤ基地が置かれている)も調査飛行の最後でリヒャルト・ハインリッヒ・シルマッヒャー(Richard heinrich Schirmacher)が上空から発見したものである。 探検隊は1939年2月6日に南極大陸を離れ、途中で南大西洋のブーベ島とブラジル沖のフェルナンド・デ・ノローニャにおいて海洋学の調査を行い、1939年4月11日にハンブルクに帰港した。この調査は極秘だったため、一般国民は戦後までこの探検のことを知らなかった。しかしノルウェー政府は南極沖の自国の捕鯨船団からシュヴァーベンラント号の来航について報告を受けており、ドイツ探検隊の南極上陸に先駆け、1939年1月14日に東経45度から20度の範囲をドロンニング・モード・ランドとしてその領有権を主張している。
※この「第3次ドイツ南極探検隊」の解説は、「ノイシュヴァーベンラント」の解説の一部です。
「第3次ドイツ南極探検隊」を含む「ノイシュヴァーベンラント」の記事については、「ノイシュヴァーベンラント」の概要を参照ください。
- 第3次ドイツ南極探検隊のページへのリンク