第3次ダービー伯爵内閣
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「エドワード・スミス=スタンリー (第14代ダービー伯爵)」の記事における「第3次ダービー伯爵内閣」の解説
ラッセル伯爵内閣の総辞職を受けて、1866年6月末に女王より大命を受けた。この第3次ダービー伯爵内閣も少数与党政権であり、第1次や第2次と同様に選挙管理内閣の性質が強かった。 選挙法改正の挫折で国民の抗議デモや暴動が多発し、急進派のジョン・ブライトが国民の武装蜂起をちらつかせて政府に選挙法改正を迫ってきた。保守党内にも暴動への恐怖が広がり、早急な選挙法改正を求める声が強まった。ダービー伯爵は基本的に選挙権拡大に反対の立場だったが、ディズレーリからの説得で最終的には早急に選挙法を改正する必要性を理解した。 ディズレーリの主導で、1867年2月に選挙法改正法案が庶民院に提出された。都市選挙区については基本的に男子戸主に選挙権を認めるが、そこに様々な条件(地方税直接納税者に限る、2年以上の居住制限、借家人の選挙権は認められない、有産者は二重投票可能など)を加えることで実質的に選挙権を制限する内容だった しかし、保守的なインド担当大臣クランボーン子爵(後のソールズベリー侯爵)、戦争大臣ジョナサン・ピール(英語版)将軍、植民地大臣カーナーヴォン伯爵らは自由党が強い大都市選挙区に有利な改正になるとして反対し、ついには辞職した。 一方ディズレーリは、庶民院における主導権を自らが握るため、何としても選挙法改正法案を通す決意を固めていた。そのためジョン・ブライトら自由党急進派に譲歩を重ね、条件を次々に廃していった結果、法案は6月15日に第三読会を通過した。貴族院では激しい反発があったものの、ダービー伯爵が辞職をちらつかせて不満を抑え込んだ結果、貴族院もなんとか通過し、8月15日にヴィクトリア女王の裁可を得て法律となった。ここに第2次選挙法改正が達成された。 可決された法案は、都市選挙区については男子戸主であれば選挙権を認めていた。直接納税の条件は納税方式を直接納税のみにすることによって廃しており、2年の居住制限の条件は1年に減らされた。また年価値10ポンド以上の住居の借家人にも選挙権が認められていた。州選挙区の有権者資格については年価値12ポンド以上の土地所有者が選挙権を有することとなった。 この第2次選挙法改正によって、有権者数は100万人から200万人に増えた。法案が提案された当初は誰も予想していなかった選挙権の大幅拡大となった。ダービー伯爵にとってもディズレーリにとっても予想外の選挙権の大盤振る舞いになったが、彼らは政権維持のための代価と考えて割り切ったという。 第2次選挙法改正法案をめぐる議会での論争の際には、すでにダービー伯爵の持病の痛風は相当悪化していた。閣議もしばしばロンドン・セント・ジェームズ・スクウェア(英語版)23番地にある彼の自邸で開かれるようになっていた。1867年秋にはオランダ王妃を所領の自邸ノウズリー・ホール(英語版)に迎えたが、ダービー伯爵の衰弱した様子を見た王妃は「伯爵は今にも燃えつきそうです。熱っぽい目と青白い顔を見ていると身の毛がよだちます」とその印象を語っている。 1868年2月に新議会が招集されたが、ダービー伯爵はもはや議会に出席できない状態だった。彼はまだそれほどの高齢ではなかったので引退生活に入ることを渋っていたが、医者の薦めで辞意を固めた。女王もすでにディズレーリを後任にと考えていた。 1868年2月24日に女王に辞表を提出した。その際にディズレーリに大命を与えるよう助言している。
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