第3次ダービー伯爵内閣植民地大臣
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「ヘンリー・ハーバート (第4代カーナーヴォン伯爵)」の記事における「第3次ダービー伯爵内閣植民地大臣」の解説
1866年6月末に成立した第3次ダービー伯爵内閣に植民地大臣として入閣した。この在任中にカーナーヴォン卿はカナダ連邦の創設に主導的な役割を果たした。 しかしカーナーヴォン卿は選挙権拡大に慎重な保守派であり、首相ダービー卿と庶民院院内総務・蔵相ベンジャミン・ディズレーリが選挙法改正を推し進めようとしていることに反発していた。同じく選挙権拡大に反対しているインド大臣クランボーン子爵(後のソールズベリー侯)や陸相ジョナサン・ピール(英語版)将軍とともに閣内から選挙法改正に反対した。彼らをなだめるためにディズレーリは穏健な改正案を作成するも、最終的には1867年3月2日の閣議でそれは廃され、原案通りの選挙法改正法案を議会に提出することが閣議決定されたため、これを不服としたクランボーン卿が辞職を表明し、カーナーヴォン卿とピール将軍もそれに倣って辞職した。 1868年2月にダービー伯爵の引退で成立した第一次ディズレーリ内閣にも入閣しなかった。この政権は長く続かず、11月の総選挙(英語版)に保守党が敗北したことで下野し、12月には自由党政権のウィリアム・グラッドストン内閣が成立した。
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