失脚と亡命生活
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/26 08:59 UTC 版)
「プリーディー・パノムヨン」の記事における「失脚と亡命生活」の解説
1949年2月26日には、プリーディーが政権奪回を目指してクーデタを敢行した。いわゆる「王宮反乱」である。 海軍は、もともと自由タイのプリーディー派を支援した経緯がある。また、海軍幹部の多くは 47年陸軍主導のクーデタに不満を抱き、ピブンを首相として容認しなかった。1948年10月1日の「参謀反乱」を契機に、プリーディー・自由タイ派は政権奪回に動き出し、海軍はこれに合流した。ピブンはこうした不穏な動きに気づき、1949年2月23日非常事態宣言を発表した。広東から潜入したプリーディーはプリーディー派と海軍の支援を得て、26日にクーデタを決行し、王宮を占拠した。かれらは宣伝局のラジオでディレーク・チャイヤナームを首相とする閣僚人事を発表した。しかし、反乱はまもなく陸軍に制圧された。クーデタの失敗の結果、プリーディーは再び国外に逃亡。その後、東北タイの国会議員などがプリーディーの一味として粛清され、プリーディーの政治生命は終焉、下賜名プラディットマヌータム男爵も剥奪された。 プリーディーはシンガポールを経由して中国へ亡命し、2度とタイの土を踏むことはなかった。彼は中国で21年生活して毛沢東と周恩来や鄧小平など中国共産党幹部と親交を深め、文化大革命が起きた1970年に中国から離れてフランスに渡り、そこで余生を送り、1983年5月2日パリ近郊の自宅にて逝去した。
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