失脚と名誉回復
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戦後の1946年(民国35年)7月、懐来県・涿鹿県で土地改革の指導にあたる。1948年(民国37年)、代表作『太陽は桑乾河を照らす』を発表した。同年11月、ブダペストで開催された世界民主婦女聯合会第2回代表大会に中国代表として出席し、理事会執行委員に選出されている。1949年(民国38年)7月、第1回文代会に出席し、大会主席に任ぜられ、さらに中華全国文学芸術界聯合会(文聯)の全国委員・常務委員に選出された。9月、中国人民政治協商会議全国委員会代表に選ばれ、『文芸報』の主編にも就任している。 中華人民共和国建国後の1950年12月、丁玲は中共中央宣伝部文芸処処長に任ぜられ、翌年1月には文化部中央文学研究所主任となった。1954年8月、第1期全国人民代表大会代表に山東省から選出されている。しかし1955年12月、丁と陳企霞は、毛沢東から批判され「反党集団の頭目」と断じられてしまった。1957年9月には、反右派運動の一環で「右派」と宣せられ、共産党を除籍されてしまう。翌年2月、丁は全ての公職から罷免され、黒竜江省湯原県の農場に下放されてしまった。 文化大革命後の1978年に、丁玲は右派指定を解除され、また名誉回復と共産党復党も果たした。以後、文聯全国委員、中国作家協会副主席、厦門大学名誉教授、政治協商会議全国委員会常務委員などを歴任している。しかし、丁は最晩年の回想録に至るまで中国文芸界のあり方に疑問を投げかけ、当局の不興をかったとされる。 1986年3月4日、北京市にて死去。享年83(満81歳)。
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失脚と名誉回復
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景泰8年(1457年)に景泰帝が病気になると、宮中では英宗を復辟する陰謀が進められ、石亨・徐有貞・曹吉祥らの手で実行に移された。これが「奪門の変」で、英宗が天順帝として再び帝位についた。この際に于謙は誣告され反逆罪で処刑される。英宗は景泰年間の事績を抹殺し、正統年間時代の政治方針に戻した。 その後成化帝の代に于謙の名誉は回復され、弘治2年(1489年)に粛愍、さらに万暦年間に忠粛という諡号を追贈された。 詩文をよくし、作品集が後世に残っている。
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