失脚と死
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1966年2月24日、北京へ訪問中に、CIAに支援されたエマヌエル・コトカ(英語版)大佐とアクワシ・アフリファ(英語版)少佐による軍事クーデターが起こり、外遊先の中国にもクーデターの情報は入るも周恩来はエンクルマを国賓待遇で取り計らった。滞在先の中国でクーデターを知ったエンクルマは新政府を非難し、アフリカ諸国連合時代から親交のあったセク・トゥーレ率いるギニアへの亡命を余儀なくされた。トゥーレはギニアの共同大統領にエンクルマを任命した。エンクルマが亡命したのちのアクラでは彼の著書が燃やされ、銅像も打ち倒された。ギニアでは賓客として遇され、回顧録の執筆やバラの栽培などをして過ごした。そして亡命から6年後の1972年4月27日、療養のため訪れたルーマニアのブカレストで癌により病死した。遺体は出生地であるンクロフルに埋葬するためガーナへと送り返され、当時の国家元首であるイグナティウス・アチャンポンほか2万人が葬儀に参列した。 エンクルマ失脚後、1969年には選挙と民政移管が行われ、エンクルマの政敵であったコフィ・ブシアが大統領となったが、このときの選挙ではエンクルマの与党であった会議人民党の要職にいたものは選挙資格を剥奪されていた。1972年にはブシア政権も倒れ、軍事政権が幾度か交代した後、1979年にジェリー・ローリングスのクーデターによって再び民政移管が行われ、エンクルマ派の人民国家党のヒラ・リマン(英語版)が大統領となったが、失政を重ねて1981年にローリングスが再びクーデターを起こして軍事政権となった。ローリングス時代にエンクルマ派は分裂を重ねて弱体化し、再び民主化された1996年の選挙においては全派あわせて6議席しかとれず、新愛国党と国民民主会議の二大政党制が定着する中でエンクルマ派は埋没していった。
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失脚と死
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/28 23:07 UTC 版)
軍の不満を聞きつけて、シリアで機をうかがっていたバッシアヌス家は陰謀を巡らせた。ドムナの姉でカラカラにとっては伯母にあたるユリア・マエサは長女ソエミアス(カラカラにとって従姉)、そしてその子で自身の孫である神官ヘリオガバルスをカラカラ帝の落胤であるとして反乱を起こした。地元シリアで信仰されるエルガバル神の祭司としての立場や豊富な資産も武器として活用され、最終的にマエサの策謀は帝国軍の大規模な反乱へと繋がった。 元老院はマクリヌス帝を支持してヘリオガバルスを僭称帝と弾劾し、反乱を重く見たマクリヌス帝も重い腰を上げて進軍した。両軍はアンティオキアの戦い (en) で激突したが、マクリヌス帝は自派の軍内で大規模な反乱が起きたことで敗北を喫した。彼は伝令兵に扮してイタリア本土へと逃れ、体勢を立て直そうとした。しかし道中のカッパドキアで殺害された。息子ディアドゥメニアヌスも別の土地で追っ手に殺害され、マクリヌスの血筋は絶えた。同時にマクリヌス父子によるセウェルス朝に代わる王朝建設も失敗に終わった。
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