失脚と死去
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1933年2月28日には「邦が治安維持のために必要な措置を講じない場合は当該邦の全面的支配権が中央政府にゆだねられる」という規定を含む「国民及び国家保護のための大統領緊急令」が発令された。その翌日にヘルトはベルリンに召集され、ヒトラーと会談した。ヘルトはヒトラーとの対決を回避すべく、これまでバイエルン政府が歴代のドイツ首相に対してそうしてきたようにヒトラーにも敬意を払うことを約束した。ヒトラーの方もハンブルクやヘッセンなどいくつかの邦に中央政府が介入したのはそれらの邦を社民党が牛耳っていたためであり、バイエルンにはそうした行動をとるつもりはないと約束した。ただヒトラーは王政復古はいかなる形でも認めず、もしバイエルンが王政復古を行った場合には軍が差し向けられることも示唆した。 3月5日の国会選挙にナチ党が大勝すると、ナチ党政権はこの選挙結果をすべての邦政府に反映させるべきと主張して各邦に自主権放棄の圧力をかけ、ブレーメンとヘッセンは3月6日、バーデンとヴュルテンベルク、ザクセンは3月8日に自主権を中央政府に移譲した。危機感を抱いたバイエルンのヘルト政府はバイエルンに国家全権委員が送られることはないとの確約を再度大統領から取ろうとしたが、3月9日にはナチスの突撃隊と親衛隊がクーデターを起こすとのうわさが広まった。ヘルトはミュンヘン警視総監と邦外務省で会議し、邦警察部隊やバイエルン人民党が保有する準軍事組織「バイエルン護衛団(ドイツ語版)」の動員を検討したが、いずれも突撃隊に対抗できるような戦闘力をもっていなかった。その日の夜にヘルトはナチ党ミュンヘン大管区指導者アドルフ・ヴァーグナー、突撃隊幕僚長エルンスト・レーム、親衛隊全国指導者ハインリヒ・ヒムラー、フランツ・フォン・エップらナチ党代表団と会談したが、ナチ党代表団は中央政府内務大臣フリックが2月28日の大統領緊急令第2条に基づいてエップをバイエルンの国家全権委員に任命したことをヘルトに通告した。絶望したヘルトは国家全権委員任命に関する落胆の気持ちを大統領に打電した。またヘルトは国軍に出動を要請して抵抗しようともしているが、国軍から出動を拒否された。 州政府解体後、エップが全国全権委員に就任してバイエルン州の実質的な権力を掌握し、ヘルトの後任にはルートヴィヒ・ジーヴェルトが就任した。 解任後、ヘルトは息子ヨーゼフが暮らすスイス・ルガーノに逃亡し、後に帰国しレーゲンスブルクに居住した。1938年に同地で死去したが、その間、州首相としての年金はナチ党政権により停止され支給されなかった。また、もう一人の息子フィリップ(ドイツ語版)はダッハウ強制収容所に最初に収容された政治犯の一人となり、戦後はバイエルン州法務大臣を務めた。
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失脚と死去
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「サラーフ・ジャディード」の記事における「失脚と死去」の解説
1970年、パレスチナ解放機構(PLO)とヨルダン軍の間で衝突が起きた(ヨルダン内戦)際、ジャディードはパレスチナ人部隊をPLO軍事部門のパレスチナ解放軍(PLA)メンバーとして送り込んで、PLOを支援させた。この行動はアサドらバアス党内の穏健派には支持されず、部隊は撤退した。このことが原因で、党内や軍内部でのジャディード派とアサド派の対立が激化した。シリア共産党はジャディード派を支持した。ソビエト連邦の駐シリア大使は対立に引き入れられた。アサドはソ連による干渉に怒り、ソ連を牽制するため、ムスタファ・タラースを北京に送り込み、武器を獲得させ、毛沢東語録を掲げさせた。1970年11月、ジャディードはアサドとタラースへの攻撃を試みたが、アサドは矯正運動を展開してジャディードを失脚させた。1970年11月13日、ジャディードは逮捕され、死去する直前までダマスカスの刑務所に入れられた。一方のアサドは2000年に死去するまで権力を保った。ジャディードは1993年8月19日、病院で心臓発作で死去した。
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