失脚と軟禁
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/01 07:03 UTC 版)
「ホルティ・ミクローシュ」の記事における「失脚と軟禁」の解説
詳細は「パンツァーファウスト作戦」を参照 1944年3月、首相カーロイ・ミクローシュ(英語版)が行っていた連合国との休戦交渉が発覚し、ホルティはオーバーザルツベルクのヒトラー山荘ベルクホーフに軟禁状態にある内に、ハンガリー全土はドイツ軍によって短期間の内に無血占領された(マルガレーテI作戦)。8月、隣国ルーマニアが枢軸国を離脱し、ソ連軍がハンガリー国境に迫った。ホルティはドイツと断交し、連合国と休戦する事を決定した。しかし、その動きを事前に察知し、阻止すべくドイツはホルティの次男ホルティ・ミクローシュ・ジュニア(英語版)を誘拐し(ミッキーマウス作戦)、親独派の矢十字党に政権を握らせるクーデターを起こした。ホルティは「息子と国家とどちらが大事なのか、それが分からない程愚かではない」と当初は要求を撥ねつけていた。しかし、矢十字党は要求を呑まなければ国内の主な教会を破壊すると脅迫。矢十字党の党員が西トランシルバニアに位置するクリシャナでプロテスタントの牧師を処刑した。 10月15日に矢十字党は休戦を発表したホルティの放送を撤回し、王宮は矢十字党党員とドイツ兵に取り囲まれた。ホルティはドイツの強要に従い、矢十字党のサーラシ・フェレンツを首相及び国民指導者に指名した後、執政の座から退くことを宣言。王宮で会見したホルティはサーラシに対して「国を売り渡す者よ、私を(王宮前広場に)吊るす革紐は用意出来たかね?」と悪態を吐いた。予てより政敵ながらホルティを崇敬していたサーラシは激しく動揺し、ホルティの身の安全が保証されなければ、ハンガリー国民統一政府の国民指導者に就き、国民の支持を得る事は困難であるとドイツ大使に伝えた。ドイツ大使はホルティの身の安全を保証し、表向き「静養」と言う形でドイツに移送され、ドイツ国内の別荘地に軟禁された。サーラシ率いるハンガリー国民統一政府は、ソ連軍によって占領されるまで枢軸国側に留まった。尚、誘拐された息子ホルティ・ミクローシュ・ジュニアは終戦後にアメリカ軍によって解放されている。
※この「失脚と軟禁」の解説は、「ホルティ・ミクローシュ」の解説の一部です。
「失脚と軟禁」を含む「ホルティ・ミクローシュ」の記事については、「ホルティ・ミクローシュ」の概要を参照ください。
- 失脚と軟禁のページへのリンク