失脚と最期
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正睦が上洛中に松平忠固(老中)、水野忠央(紀州藩家老)の工作により南紀派の井伊直弼が大老に就任すると、直弼は正睦を始めとする一橋派の排斥を始めた。安政5年(1858年)6月21日、正睦は松平忠固と共に登城停止処分にされた。6月23日には忠固と共に老中を罷免され、帝鑑間詰を命じられる。これにより正睦は政治生命を絶たれることになった。 安政6年(1859年)9月6日、正睦は家督を四男の正倫に譲って隠居し見山と号した。正睦のこの隠居に関しては大老の直弼による強制的な隠居命令であり、この10日ほど前の8月27日に岩瀬忠震や永井尚忠ら一橋派が蟄居させられており、その連座処分だったとされる。ただし、直弼は時機を見ての正睦の再登用を検討していたとも言われており、安政の大獄においては他の一橋派大名が閉門などの厳重な処分を受ける中で不問に付されている。 桜田門外の変後の文久2年(1862年)11月20日、正睦は朝廷と幕府の双方から命令される形で蟄居処分となり、佐倉城での蟄居を余儀なくされたが、これは直弼の安政の大獄に対する報復人事であった。 元治元年(1864年)3月21日、正睦は佐倉城三の丸の松山御殿において死去した。享年55。蟄居処分は没後の3月29日に解かれた。。 明治維新後、佐倉藩堀田家は華族令によって正倫に伯爵を授けられた。 墓所は佐倉市新町の安城山不矜院甚大寺で正俊・正倫の墓とともに並ぶ。
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失脚と最期
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文帝の皇后の独孤伽羅は嫉妬深い性格で、夫の文帝がほかの女性を寵愛することを許さなかった。ある時、文帝が尉遅迥の孫娘を仁寿宮で寵愛していることを知ると、皇后はこの娘を密かに殺させた。文帝は怒り、単騎で宮殿を飛び出して山谷の間に入った。高熲は楊素とともに文帝を追いかけ、「陛下は一婦人のために天下を軽んじられますな」と言って諫めた。これを聞いた文帝は少し気が収まり、夜中に宮殿に帰還した。これより以前、独孤皇后は高熲の父の高賓が彼女の父の独孤信の家来だったこともあり礼遇していた。しかし高熲が皇后を「一婦人」と言ったことを知ると、高熲を怨むようになったという。 この頃、文帝の長男である皇太子の楊勇は奢侈を好み、多くの愛妾を持っていたことから、父母の文帝・独孤皇后のいずれにも嫌われていた。皇后は楊勇を廃立して次男の楊広を新たに皇太子に立てることを勧めるようになり、決断しかねた文帝はこれを高熲に相談した。高熲は皇太子と姻戚関係にあり、長幼の序を理由に廃立に反対したため、文帝はいったんは思いとどまった。独孤皇后は高熲が廃立に賛同しないことを知ると、彼の失脚を企むようになった。これより以前、高熲の夫人が死去した時、皇后は文帝に後添えを勧めたことがあったが、高熲は老齢を理由にこれを断った。ところがしばらくして高熲の愛妾が男子を産んだことを知ると、皇后は非常に不快に思い、文帝に対し「陛下が後添えを世話しようとしたのに、高熲は愛妾のことを気にかけ、陛下を欺いたのです。これでもまだ高熲を信じようとなさるのですか」と讒言し、これにより文帝は高熲を疎んじるようになった。 598年、漢王楊諒を総大将とする高句麗遠征が行われ、高熲は遠征に反対したが、元帥長史として従軍した。大雨と疫病により遠征が失敗すると、独孤皇后は高熲には始めから遠征を成功させる気がなかったと文帝に讒言した。さらに遠征時、文帝は楊諒が年少であることから、高熲に軍の一切を委任したところ、楊諒の意見の多くは高熲によって退けられた。楊諒はこのことを深く怨み、帰還後皇后に「私は高熲に殺されるところでした」と訴えた。これらを聞いた文帝はますます高熲を疑うようになった。599年、王世積が誅殺されたのに連座して高熲は免官され、さらに讒言が相次いだことによって庶民に落とされた。翌600年、高熲という後ろ盾を失った楊勇は皇太子を廃されて幽閉され、楊広が新たな皇太子となった。 604年、煬帝が即位すると高熲は太常に任じられた。煬帝が奢侈を好み、北周や北斉の音楽家および天下の演芸娯楽を集めようとしたところ、高熲は上奏して反対した。さらに607年、煬帝の万里の長城の築城や突厥の啓民可汗への優遇、朝廷の綱紀の弛緩などを賀若弼らとともに批判しあったところ、朝政誹謗の罪で煬帝に誅殺された。天下の人々は高熲の死を冤罪とし、これを惜しんでやまなかったという。
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