失脚と除名
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/07 15:30 UTC 版)
コミンテルンに参加していたイタリア社会党(PSI)の1921年初めのリヴォルノ会議に出席。コミンテルンの代議員であるラーコシ・マーチャーシュらから支援を得て、イタリア共産党(PCI)結成に動き出していた、アントニオ・グラムシやアマデオ・ボルディガらの派閥に批判的なジアチント・メノッティ・セッラティ支持を打ち出す。その後ラーコシはドイツにやって来てドイツ共産党に支持を求めたが、そこでレヴィは公然たるラーコシ批判を行った。レヴィはコミンテルンによるイタリア社会党分裂工作はセクトの利益のために大衆政党の発展を妨げていると考えていた。 しかし共産党内におけるコミンテルンの権威は絶対であったので、ラーコシを批判したレヴィは「調停派」「日和見主義者」とのレッテルを貼られるようになった。イタリアを巡る中央委員会での議論を経て、レヴィやその支持者はラデックやラーコシの反対に遭い、投票権を失う。1921年初に共産党議長を退任、この時共同議長を務めていたドイミヒやクララ・ツェトキンも同職を降りており、オットー・ブラスやアドルフ・ホフマンも中央委員会から退陣した。 代わって共産党の指導者となったハインリヒ・ブランドラー(ドイツ語版)は、コミンテルンから派遣されたハンガリー革命家クン・ベーラの指示を受けて1921年3月に共産党が優勢な鉱山都市マンスフェルトを中心に3月闘争(ドイツ語版)と呼ばれる武装蜂起を起こした。マンスフェルトを数日間支配することに成功したものの、中央政府が派遣してきた軍に掃討され、壊滅的失敗に終わった。 これを見たレヴィは小冊子『我々の道、一揆主義に抗して(Unser Weg. Wider den Putschismus)』を発刊して、3月闘争を一揆主義と批判し、それを扇動したコミンテルンやボルシェヴィキも批判した。しかし4月の中央委員会総会は「3月闘争は1919年闘争のごとき一揆主義ではなかった」とする見解を採択し、レヴィを中央委員会から追放した。 5月に入るとツェトキンがレーニンを説得して3月闘争の失敗を認めさせ、クン・ベーラら攻勢主義者に有罪が申し渡されたが、レヴィの復権は認められなかった。その理由についてレーニンは「レヴィの言うことはすべて正しい。しかし彼は小冊子を書くことで党への裏切りを犯した」と述べている。 1921年6月から7月にかけてのコミンテルン第3回世界大会は、3月闘争について誤謬があったとしつつも「自らの力で革命の進展に関与し、革命を促進し、それによって大衆に対する指導権を獲得しようとした最初の試み」と評価し、コミンテルンやロシア共産党への批判は許さず、レヴィの除名を承認した。
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