失脚後の晩年
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/03 14:12 UTC 版)
「イザベラ・オブ・フランス」の記事における「失脚後の晩年」の解説
失脚直後の頃はバーカムステッド城(英語版)やウィンザー城で幽閉されていたが、1332年に解放されてイザベラ所有のノーフォーク・ライジング城(英語版)を生活の本拠とするようになった。ヴィクトリア朝の歴史家アグネス・ストリックランド(英語版)によるとこの頃の彼女は時々狂気になったといい、恋人モーティマーの死で神経衰弱していたのではと推測している。 イザベラの所領の多くは没収されたものの、3000ポンドの年金を支給されたため、失脚後も裕福な生活を送った。さらに1337年には年金が4000ポンドに増加された。吟遊詩人や狩猟家、馬丁などを召し抱え、様々な高級品を収集していた。エドワード3世やその息子たちもしばしば彼女のもとを訪れている。またイングランド各地を旅行した。1342年にはフランスとの和平交渉のためにパリを旅行する計画があったが、これは実現しなかった。 彼女はアーサー王の伝説と宝石に関心を持ち続け、 1358年の聖ジョージの日のウィンザーでの祝賀会に300のルビーと1800のパールを使ったシルクのドレスと金のサークレットを付けて出席している。また晩年には占星術や幾何学に関心を寄せていたようである 1358年8月22日にハートフォード城(英語版)で死去し、遺言でモーティマーの眠るグレイフライアーズ教会(英語版)へ埋葬された。ライジング城を含む遺産はお気に入りの孫だったエドワード黒太子に遺贈している
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