失脚と処刑
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「ロジャー・モーティマー (初代マーチ伯)」の記事における「失脚と処刑」の解説
エドワード3世は成年に近づくにつれて母イザベラとモーティマーによる国政壟断に不満を抱くようになり、親政を開始する機会を探るようになった。そして1330年10月にノッティンガムで諸侯の会議が行われている最中にモーティマーをクーデター的に逮捕、モーティマーは11月末に召集した議会において絞首刑が宣告された。イザベラは見逃されるも政治から引退することとなった。 モーティマーはタイバーンにおいて11月29日に絞首刑となった モーティマーの死後マーチ伯爵位は消滅したが、1354年に同名の孫ロジャー・モーティマー(英語版)が爵位を回復した。また、ロジャーの曾孫アン・モーティマーを通してイングランド王家とも連なり、王族リチャード・オブ・コニスバラと結婚したアンはリチャード・プランタジネットを儲け、子孫からヨーク朝、テューダー朝、ステュアート朝のイングランド王を輩出、王家は現在のウィンザー朝まで続いている。
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失脚と処刑
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「エドワード・シーモア (初代サマセット公)」の記事における「失脚と処刑」の解説
サマセット公が1549年7月のケットの反乱に理解を示したことは地主である貴族やジェントリの反発を招いていた。またこれに先立つ1549年3月には弟である初代シーモア男爵トマス・シーモアが「シーモア事件」(トマスがエドワード6世の異母姉エリザベス(後のエリザベス1世)との結婚を画策して王権に介入しようとした)で捕らえられ反逆罪で処刑される事件が発生していた。 権力奪取を狙うウォリック伯に付け込まれるようになり、ウォリック伯はサマセット公を枢密院で糾弾することを画策した。これを事前に察知したサマセット公は民衆に向けて布告を出し、国民を味方につけようとし、また西部から帰還中のラッセル卿の支持を得ようと手を回していたが、いずれも失敗に終わり、1549年10月12日に逮捕され、ロンドン塔に投獄された。 1550年初めに一時釈放されるが、その時には完全に権力を掌握していたノーサンバーランド公(ウォリック伯)により、1551年に再び逮捕された。捏造された罪状で裁判にかけられ、大逆罪で有罪となり、1552年1月22日に処刑された。 保有爵位は剥奪されたが、息子のエドワード・シーモアは1559年に父と同じ爵位ハートフォード伯爵を新規に叙されており、またその孫であるウィリアムは1660年にサマセット公位の復権を許され、第2代サマセット公となっている。
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