失脚とその後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/11 05:29 UTC 版)
「ヴェルナー・フォン・ブロンベルク」の記事における「失脚とその後」の解説
詳細は「ホスバッハ覚書」を参照 1937年11月5日、彼はヒトラーの主宰する秘密会議に参加した。三軍の総司令官、ヴェルナー・フォン・フリッチュ(陸軍)、エーリッヒ・レーダー(海軍)、ヘルマン・ゲーリング(空軍)、そして外務大臣コンスタンティン・フォン・ノイラートが出席していた。議題は、「決定的に近い未来における」、オーストリアとチェコスロバキアに対する戦争計画であった。ブロンベルクは計画そのものには賛意を示したが、国防軍の戦争準備が十分でない状態での開戦には反対であった。ヒトラーは英仏の介入はないと予測していたが、ブロンベルクやフリッチュは懐疑的であり、レーダーもほとんど発言しなかったため、会議での合意は得られなかった。ヒトラーは、自分の意に従わない陸軍を掌握するため、ブロンベルクとフリッチュの排除を考え出す。 そのころ、ブロンベルクはエルナ・グルーン(Erna Gruhn)という25歳の女性と恋愛関係にあった。11月頃には彼女との結婚を決めた。しかしほどなく、彼女は元娼婦であったという噂が流れだす。1938年1月12日にはヒトラーを証人として結婚式を挙げるが、いかがわしい女性と司令官が結婚したということに対して将校団が反発し、軍の支持を完全に失う。1月26日、ヒトラーから結婚の解消を求められたがこれを拒否、辞任した。時を同じくしてフリッチュも同性愛者であるとの容疑がかかり、失脚する。この二つの事件は国防相の地位を狙ったゲーリングや、ハインリヒ・ヒムラーやラインハルト・ハイドリヒのゲシュタポの画策によるもので、特にフリッチュの事件は全くのでっちあげのスキャンダルであった。 詳細は「ブロンベルク罷免事件」を参照 ブロンベルクは罷免される際に、陸軍総司令官の後任にヴァルター・フォン・ブラウヒッチュとライヒェナウを推薦し、国防相の後任としてゲーリングを推薦した。しかし、ゲーリングの国防相就任はヒトラーに認められなかった。そこでブロンベルクは、ヒトラー自身の国防相兼務を提案している。しかしその後、そもそもヒトラーは後任の国防大臣を任命せず、自身が国防軍最高指揮者と国防軍総司令官を兼務してヴィルヘルム・カイテル中将を総長とする国防軍最高司令部を新設し、自らはその最高司令官となった。こうして軍に対するヒトラーの支配はより確実なものとなった。なお、ヒトラーは「外遊資金」として5万ライヒスマルクを贈り、有事の際は必ず呼び戻すと約束している。 辞職後、一年間の新婚旅行に出かけたが、ローマで国防相副官のヴァンゲンハイム中佐(Hubert Freiherr von Wangenheim)に自決を勧告される事件が起こっている。また、夫人との関係もうまくいかず、二週間後には離婚を前提として復職を要請する親書をヒトラーに送ったが、却下されている。 1939年9月、第二次世界大戦が始まった。ブロンベルクはかつての約束通り現役に復帰することを望んだが、ヒトラーは離婚しない限り復帰させないと拒否、かつての約束は反故となった。ブロンベルクは復帰することなく、逼塞して暮らした。夫人には男性関係の噂がしばしば立ち、友人も離婚を勧告したが、「妻は名誉あるドイツ陸軍大将の座を捨てさせた女であり、それほどの女を捨てることなどできない。」と言い、結婚生活を続けた。 第二次世界大戦が終わると、戦犯容疑で連合軍に逮捕された。ニュルンベルク裁判には証人として出廷している。1946年3月、癌のため米軍病院にて死去した。
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