失脚とジャコバイト合流
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/10/22 06:53 UTC 版)
「ヘンリー・シンジョン (初代ボリングブルック子爵)」の記事における「失脚とジャコバイト合流」の解説
8月1日にアンが崩御してステュアート朝が断絶し、ゲオルク・ルートヴィヒが渡英してジョージ1世に即位したが、ジョージ1世はジャコバイトを抱えるトーリーを倦厭していた。特に親ジャコバイトのボリングブルック子爵を嫌い、彼を国務大臣から罷免した。 さらに翌1715年1月の総選挙でホイッグ党が大勝したため、3月に招集された議会はボリングブルック子爵をはじめとするアン女王晩年のトーリー党政権幹部への追及の機運が高まった。政敵のロバート・ウォルポールにフランスとの単独交渉を批判されると、ボリングブルック子爵は身の危険を感じてフランスへ亡命した。 7月にはフランスに亡命中のジャコバイトの王「ジェームズ3世」の下に身を寄せて彼の「国務大臣」となった。ボリングブルック子爵のこの行動はホイッグ党にとってトーリー党をジャコバイトとして糾弾する上で格好の証拠となり、7月中にボリングブルック子爵は議会から私権剥奪を決議された。この頃にオックスフォード伯はロンドン塔へ投獄され、オーモンド公もジャコバイトへ走ったため、トーリー党幹部はあらかた一掃された。 ジェームズはハノーヴァー朝の不人気や合同後のスコットランド人の不満が高まっていることなどから復位に自信を持っていた。そしてスコットランドのジャコバイト蜂起に依拠した反乱計画を練った。ボリングブルック子爵はスコットランドだけに依拠するのは無謀であり、イングランド世論の支持を受けることが必要で、そのためには国教会に帰依すべきと勧めたが、ジェームズはカトリック信仰を捨てることを拒否し、スコットランド蜂起に依拠する路線を崩さなかった。 ボリングブルック子爵はマールバラ公らトーリー党幹部と接触して、トーリー党をジャコバイトに取り込もうと交渉していたが、その手配が済む前の9月にスコットランドでマー伯ジョン・アースキンらジャコバイトの反乱が発生してしまった。ジェームズも上陸したが蜂起は散々な失敗に終わり、ジェームズもすぐに逃げ帰ってくる羽目となった。この反乱でトーリーをジャコバイト扱いして排除する路線は強まり、ホイッグ一党支配が強化された。ボリングブルック子爵はジェームズやジャコバイトを見限り、本国からの恩赦を期待するようになった。 1720年には妻が亡くなり、マリー・クレール・デシャンと再婚している。また、亡命中にヴォルテールやモンテスキューと交流して哲学を学んだりしていた。
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