失脚と復権
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義廉の家督相続は上述の関東政策の一環であったが、義鏡の失脚によって斯波氏当主に実子を差し置いて養子の義廉を据え置く意味はほとんど無くなり、将軍義政は義敏の復帰を考えるようになった。 義廉が寛正6年(1465年)に斯波氏と同族の奥州探題大崎教兼との取次に失敗したことから、義敏はかつて教兼を取り次いでいたことと甲斐常治も亡くなったことを強みとして復帰工作を始めた。一方的に廃嫡されることを恐れた義廉は義政の妨害に動き出し山名宗全・畠山義就の連携に奔走したものの、義敏は義政の側近の政所執事伊勢貞親や季瓊真蘂の画策で寛正6年12月30日に京都で義政と対面を果たす。翌文正元年(1466年)7月23日に義廉は幕府への出仕を停止させられ、8月25日には義敏への3ヶ国の守護返還を命じられた。 しかし義廉は山名宗全派と手を組んでおり、義敏の支持者だった元管領細川勝元ら諸大名も伊勢貞親ら将軍側近衆には反感を抱いていたため問題は複雑化した。義敏は貞親・真蘂・赤松政則らとともに9月6日の文正の政変によって失脚し、14日に守護職は義廉に戻された。宗全・義廉らは勝元派の排除も狙い、大和で挙兵した畠山義就を呼び寄せる。義廉は義就の軍事力を背景に応仁元年(1467年)1月8日に畠山政長を管領の座から追い落としてその後任に就いた。義父の宗全らは義廉を支持し、いっぽう義敏は勝元を頼り、斯波氏の争いは足利将軍家の家督争いや畠山氏の争いと関係して応仁の乱の原因の1つにもなる。 なお応仁元年5月1日には左兵衛佐に任じられている(『斎藤親基日記』)。
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失脚と復権
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「アレクサンデル・ドゥプチェク」の記事における「失脚と復権」の解説
失脚後、ドゥプチェクはスロバキアに戻り、ブラチスラヴァ市ラチャ街区クラスニャニー地区にあったスロバキア社会主義共和国林業水資源管理省(1974年、西部スロバキア国有林国営会社に再編、現・スロバキア共和国森林国有会社)の機械工として1985年まで勤務した。長男パボルの回想によると、数十人の秘密警察員が日夜監視し、趣味の魚釣りも禁止されていた。失脚後の父は家族に、政治のことをほとんど語らなかったという。 退職後の1988年、ボローニャ大学での名誉博士号授与のためにイタリアを訪問し、失脚後初めて自らの政治見解をイタリア共産党機関紙『ウニタ(英語版)』で公表した。 1989年のビロード革命では、ヴァーツラフ・ハヴェルの率いる市民フォーラムを支援し、大規模な民主化デモが展開されていたプラハのヴァーツラフ広場に面したバルコニーに登場して大きな歓声を受けた。これはビロード革命の成功とドゥプチェク自身の復権を後押しし、共産党体制が倒れた同年12月、連邦議会議長として政界に復帰。1990年の民主化後最初の連邦議会選挙で当選した。1992年、スロバキア社会民主党 (SSDS) 党首に就任。チェコスロバキア連邦制解消を決定付けた同年の総選挙でも再選を果たし、チェコスロバキア連邦議会議長に再任された。 連邦制解消に向けたチェコ、スロバキア両共和国政府による作業が大詰めを迎えていた同年9月1日、チェコ・フンポレツ市内の高速D1号線で発生した交通事故で重傷を負った。プラハ市のナ・ホモルツェ病院に搬送されて治療を受けたが回復せず、同年11月7日、10月革命75周年の日に死去。ブラチスラヴァ市カルロヴァ・ヴェス街区のスラーヴィチエ谷墓地に埋葬された。
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失脚と復権
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高麗軍の韋得儒、盧進義、金福大は日本侵攻での不手際で譴責され、金方慶に含むところがあった。1277年、忻都との会見から帰還した金方慶を諸将が出迎えたが、盧進義が機嫌を取ろうとしてか酒を注ごうとするも、金方慶腹心の韓希愈が「こんな奴の酒など飲むべきでない」と割って入り、金方慶も無視して席を立った。韋得儒は韓希愈にとりなしの依頼をしたが侮辱され、殴り合いの喧嘩となった。 ここで韋得儒らは忻都に虚偽の告発をし、洪茶丘もその讒言に乗って、謀反と横領の罪でクビライに捕らえられる。金方慶は針金を首に結ばれて引き回され、鞭打ちに処された後、大青島(忠清南道)に島流しにされた。しかし、クビライに対して忠烈王が懸命に金方慶の無罪を主張し、最終的にはクビライ御前での裁判となるはずだったが、その直前に韋得儒と盧進義が不審死したため、許されて帰還を果たす。 1281年、弘安の役に臨んでは、クビライから中善大夫管領高麗国都元帥の称号と四品の官位を与えられた。
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失脚と復権
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「トマス・ハワード (第3代ノーフォーク公)」の記事における「失脚と復権」の解説
これ以降、ヘンリー8世のノーフォーク公に対する信用は低下していき、初代ハートフォード伯爵(後のサマセット公)エドワード・シーモアら政敵に付け入れられるようになった。ノーフォーク公はクロムウェルに代わる宰相としての地位を得られず、キャサリンの処刑もあって保守派の立場はぐらつき、クランマー・ハートフォード伯らプロテスタント改革派が盛り返した。この争いはヘンリー8世の治世末期まで続いた。 軍人としての活動は続き、1542年9月にスコットランドへ遠征して略奪、1544年に第五次イタリア戦争でモントルイユを包囲したが落とせず退却した。 1546年12月には長男のサリー伯ヘンリー・ハワードとともに大逆罪容疑で逮捕され、ロンドン塔に投獄された。翌1547年1月19日にまずサリー伯が処刑され、ついでノーフォーク公も処刑されるはずであったが、直前の1月28日にヘンリー8世が崩御したため、処刑中止となった。もっとも、エドワード6世の治世中にはハートフォード伯の意向で釈放されることはなかった。 1553年のエドワード6世の崩御後、摂政である初代ノーサンバランド公ジョン・ダドリーがジェーン・グレイを女王に擁立した際には、自分と同じカトリックのメアリー王女(メアリー1世)を所領に匿った。その功績でメアリー1世即位後の1553年8月に釈放とノーフォーク公位への復権が認められた。以後はメアリー1世に仕えノーサンバランド公の裁判を主宰、ワイアットの乱鎮圧に当たった。ただしワイアットの乱では敵の攻撃で後退する失態を見せている。 1554年8月25日にサフォークのフラムリンガム城(英語版)において死去した。ノーフォーク公位は孫(処刑されたサリー伯の遺児)のトマスが継いだが、この孫も1572年にエリザベス1世への大逆罪で処刑される運命にある。
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