奪門の変
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奪門の変(だつもんのへん)は、景泰8年1月17日(1457年2月11日)に、中国・明において発生したクーデター。上皇の英宗が、弟の景泰帝より帝位を奪って重祚した事件である。
概要
土木の変でオイラトに敗れて捕虜となった英宗は、明への帰還後軟禁状態にあった。しかし英宗は、自派の石亨・徐有貞・曹吉祥と組んで、景泰帝の病臥に乗じてタタール来襲の虚報で夜間に諸門を制圧した。英宗は重祚して再び帝位に就き(天順帝)、景泰帝派の于謙・王文・太監王誠が処刑された。病床にあった景泰帝も幽閉され、間もなく病状が悪化して崩御した(暗殺説もある)。
周辺国への影響
1457年6月、朝鮮では首陽大君(後の世祖)による圧力で世祖に譲位して太上王となっていた端宗が廃位されて魯山君(ノサングン[1]、ろさんくん)に降格し、江原道寧越へ追放された上、同年10月に世祖の王命により同地で薬殺刑(賜薬)に処せられた。
脚注
関連項目
奪門の変
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/08 08:01 UTC 版)
「奪門の変」を参照 上皇となった正統帝は政治的影響力を失い、事実上の監禁状態に置かれた。さらに景泰帝は、正統帝の子である朱見深(成化帝)を立太子することを約束しながら、のちにそれを反故にしたことで不満を高めた。景泰8年(1457年)、景泰帝が病床に就いた際に石亨や曹吉祥らによって政変が発生し、于謙ら景泰帝派の重臣は粛清され、景泰帝も同年に死去して正統帝は復辟した(天順帝)。
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