奮戦、そして帰参
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/07 08:26 UTC 版)
繁長は謙信の軍勢に包囲される中でよく凌ぎ、翌永禄12年(1569年)1月10日(1569年2月7日)には謙信の軍勢に加わっていた色部勝長を夜襲によって討ち取る戦果を挙げている。しかし、その頃には既に本庄城の防備も限界をきたしていた。繁長は前年の12月から米沢の伊達氏、会津の蘆名氏による仲介講和を模索しはじめた。飛騨の三木良頼も謙信へ送った書状の中で伊達と蘆名を仲介しての和議成立に期待感を滲ませながら繁長へ穏便な処置を施すように勧告している。 その後は『本荘氏記録』によると3月18日に繁長は嫡男の千代丸(後の顕長)を人質として謙信に差し出すことで降伏し、自身は雨順斎と号したとある。 助命こそはされたものの、この後の謙信存命中は表立って活躍する機会はなかったようである。しかしながら、この戦いは本庄繁長の勇猛果敢さを示した戦いとして後の世にまで語り継がれることになった。 この項目は、日本の歴史に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:日本/P:歴史/P:歴史学/PJ日本史)。
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