譲位、降格、賜死
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/06 15:06 UTC 版)
「端宗 (朝鮮王)」の記事における「譲位、降格、賜死」の解説
1455年に皇甫仁や金宗瑞の権力拡大に批判的であった成三問ら集賢殿の学者たちは端宗の復位を計画して失敗し、1456年に処刑される。明において、1457年1月16日 (旧暦)に当時上皇であった英宗が景泰帝から帝位を奪還して重祚した奪門の変が起こる。同年6月(旧暦)に上王を廃位となり、魯山君(ノサングン、ろさんくん)に、後に庶人に降格される。以後、江原道寧越へ追放される。錦城大君が賜死となった翌月の同年10月(旧暦)に王命によりその地で薬殺刑(賜薬)に処され、遺体は川に投げ込まれた。享年16。陵は江原道寧越にある荘陵。
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