戦後のモデクゲイ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/26 13:59 UTC 版)
日本の敗戦に伴ってパラオはアメリカの信託統治下に入る。終戦直後も、モデクゲイ信者がアメリカ軍診療所での治療を妨害するなどし、モデクゲイはしばらく占領軍にとって厄介な存在だった。しかし戦争が終わって平和な時間が経過していくと、民衆の神にすがる思いが次第に薄れていき、モデクゲイの教勢は衰退した。 3代目指導者のルグールは、モデクゲイ教団の改革に着手し、禁煙・禁酒の奨励や男女間における礼を改め、ピューリタン的道徳律を帯びる教義へと変更していった。また日本統治時代に持ち込まれた無尽制度を教団活動として取り入れていった。 1975年、現在のガスパン州イボバン村にモデクゲイ学校(Belau Modekngei School)が開校する。英語、数学などの科目とともにパラオの慣習の学習、パラオ・ダンス、板彫りといった伝統文化が重視される授業が行われた。これはアメリカによる経済援助に依存したパラオ社会を脱却し、働きつつ学ぶという立場から経済的自立を目指す教育とされた。モデクゲイ学校では寮生活において監督者が存在し、校内ではポリスと呼ばれる風紀係がいる。在学生の規律が整えられ、風紀の乱れはないといわれる。 現在、イボバン村はモデクゲイの宗教都市となっており、宗教行事もここで執り行われる。多くの教団職員や信者もここに移り住んでいる。
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