中華民国臨時政府への参加
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1926年(民国15年)以降、天津の日本租界に隠居する一方で、日本との政治的交流を深めている。1931年(民国20年)、天津で段祺瑞、王揖唐とともに「中日密教研究会」を組織した。その実態は日本との政治的連携を密かに進めるものであった。その後も、「救済華北経済委員会」、「東亜経済協会」など対日協力組織に参加した。1935年(民国24年)末に、冀察政務委員会委員に就任している。 1937年(民国26年)に日本が北平・天津を占領すると、高凌霨は天津治安維持会を組織して日本に協力した。同年12月、王克敏らと協議して親日政権の組織を開始する。同月14日、中華民国臨時政府が成立した。高は、天津特別市長を経て、議政委員会委員兼河北省省長に就任した。しかし、翌年5月に銃撃に遭うなどし、政務への意欲を削がれたのか、1939年(民国28年)に辞任して北平に引退した。 1940年(民国29年)3月4日、北京特別市で心臓病のため死去。享年71(満69歳)。
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