中華民国顧問
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/02/14 14:51 UTC 版)
「ヘルマン・クリーベル」の記事における「中華民国顧問」の解説
1929年、クリーベルは参謀本部時代の旧知であるマックス・バウアー大佐の代理として中国に赴き、中独合作の一環として蒋介石の中国国民党政府の軍事・経済・政治顧問に就任した。バウアーが同年5月に急死すると、クリーベルはその後任に就任した。しかし蒋介石との対立や在中国の民間人顧問との対立、そしてドイツ国通商省との対立が原因で翌年5月には解任された。中国側にとっては、クリーベルは自国の権益ばかり主張して外交的行動に欠けており、ドイツ人民間顧問にすればクリーベルはその経歴は好ましいものではなく、最初から就任に反対であった。クリーベルの後任にはやはり参謀本部当時の旧知であるゲオルク・ヴェッツェルが就任した。しかしクリーベルは軍事顧問の一員として1933年まで中国に留まった。 王制主義者であるクリーベルはナチスから距離を置いていたが、その勢力伸長を目の当たりにして1930年1月にナチスに入党した。ナチス政権樹立後の1933年12月にはその入党時期が1928年に遡及され、さらに1938年には既に1922年11月に入党していたというふうに修正された。これは右翼運動の古参であるクリーベルが当初からナチスを支持していたように見せかけるための書き換え行為だった。
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