中華民国臨時政府などでの活動
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/28 07:55 UTC 版)
「王克敏」の記事における「中華民国臨時政府などでの活動」の解説
日中戦争が勃発した後の1937年(民国26年)10月、王克敏は北支那方面軍特務部長喜多誠一の仲介で北平(北京)に迎え入れられた。そして、王揖唐らとともに、親日政権樹立作業を開始する。同年12月14日、中華民国臨時政府が成立すると、王克敏は行政委員会委員長兼議政委員会常務委員兼行政部総長に就任し、事実上の最高首脳となった。翌年、王克敏は、南京で中華民国維新政府を樹立していた梁鴻志と合流の交渉を開始する。同年9月22日に中華民国政府連合委員会が北平で設立され、これが臨時政府と維新政府の連合機関となった。1939年(民国28年)6月、王克敏は汪兆銘と合流の交渉を開始し、妥結に至っている。 1940年(民国29年)3月に南京国民政府が成立し、王克敏の臨時政府、梁鴻志の維新政府はこれに併合された。南京国民政府の下では、臨時政府の旧統治地域を中心に華北政務委員会が成立し、王克敏が委員長兼内政総署督弁に任命されている。しかし、王は興亜院華北連絡部部長・森岡皐(喜多誠一の後任)や汪兆銘と対立したため、同年6月に辞任に追い込まれた。 以後しばらく、王克敏は国民政府中央政治委員会委員のみの地位にあった。しかし1943年(民国32年)6月、華北政務委員会委員長に再任された。中央政治委員会当然委員・延聘委員、最高国防会議委員、全国経済委員会副委員長、物資調査委員会委員長なども歴任している。1945年(民国34年)2月、病身のために、各職から辞任した。日本敗北後の同年12月6日、王克敏は漢奸として北平で逮捕される。同月25日、王は獄中で死去した。享年73。一般には自殺したとされるが、病死説も有力である。
※この「中華民国臨時政府などでの活動」の解説は、「王克敏」の解説の一部です。
「中華民国臨時政府などでの活動」を含む「王克敏」の記事については、「王克敏」の概要を参照ください。
- 中華民国臨時政府などでの活動のページへのリンク