溥儀連れ出し工作
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/27 23:31 UTC 版)
天津在任中、関東軍が当時天津にいた溥儀を天津から脱出させる工作を行った。1931年11月8日、関東軍は放浪中国人を集め、日本租界の方向に向け発砲させて騒ぎを起こし、それを理由に戒厳令敷き、その混乱を利用して土肥原賢二大佐(当時奉天特務機関長)らが溥儀を連れ出した。田尻は土肥原に対し、一定の批判を持ちながらも、「溥儀に出盧の意志があるかぎり、関東軍の連れ出し工作にたいし私は邪魔だてしたくない」と言い、最終的に工作を黙認する立場をとった。後日田尻らはリットン調査団に対してこの騒ぎを「中国側の不法行為」として報告したが、田尻は「この説明振りほど良心に反し曲筆を弄したものはなかった」と回想している。
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