最後の巡遊
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/08 18:46 UTC 版)
末子の胡亥と左丞相の李斯を伴った第4回巡遊 は東南へ向かった。これは、方士が東南方向から天子の気が立ち込めているとの言を受け、これを封じるために選ばれた。500年後に金陵(南京)にて天子が現れると聞くと、始皇帝は山を削り丘を切って防ごうとした。また、海神と闘う夢を見たため弩を携えて海に臨み、之罘で大鮫魚を仕留めた。 ところが、平原津で始皇帝は病気となった。症状は段々と深刻になり、ついに蒙恬の監察役として北方にとどまっている 長子の扶蘇に「咸陽に戻って葬儀を主催せよ」との遺詔を口頭で、信頼を置く宦官の趙高 に作成させ託した。 始皇37年(紀元前210年)、始皇帝は沙丘の平台(現在の河北省邢台市広宗県)にて崩御。伝説によると彼は、宮殿の学者や医師らが処方した不死の効果を期待する水銀入りの薬を服用していたという。
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