帝政後期の混乱、ローマ軍の撤退と支配の終焉
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「ブリタンニア」の記事における「帝政後期の混乱、ローマ軍の撤退と支配の終焉」の解説
4世紀に入ると、ブリタンニアは2方面からの攻撃にさらされるようになった。西部からのアイルランド人の攻撃と、東部からのサクソン人の攻撃である。反乱が相次ぎ、ローマ人の活動は次第に低調になっていった。 407年にコンスタンティヌス3世がローマ皇帝を自称し、残軍を率いてブリタンニアを離れたとき、ローマの支配は終焉を迎えた。この頃既に西ローマ帝国ではイタリアやガリアにゲルマン人が侵入し、ラヴェンナの西ローマ政府にはイタリアから遠いブリタンニアを維持する力は残っていなかったのである。残された属州の住民たちは自分たちで防衛と自治に当たらなければならなかった。このことは410年に皇帝ホノリウスがブリタンニアに送った手紙に現れている。 ローマ人の撤退以後、ブリタンニアでは古来からのブリトン人の部族制が復活する。それぞれが王を戴く部族国家が乱立し、政治的統一がされる前にゲルマン系アングロ・サクソン人の侵入を迎える。混迷の暗黒時代の到来である。
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