帝政時代以後
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帝政時代になると、元老院はしだいに皇帝の統治に組み込まれていき、その地位は低下していった。また軍団勤務の義務も緩くなっていった。それでも五賢帝時代までは、「元首」である皇帝の正統性、後継者を承認(護民官職権授与)する機関として重要であり、皇帝の発した勅令も恒久法制化するには元老院の議決を必要とした。そして軍団叩き上げの人物でも政務に関わらせるために、皇帝の推挙によって元老院の議席を得たりした。トラヤヌスなどの皇帝たちも、元老院の権威を尊重しながら統治を行なった。また帝国の属州総督も半数は元老院に任命権があった。元老院が総督を任命する元老院属州は、皇帝が総督を任命する皇帝属州より統治が容易で経済力もある地域であり、元老院はいわば実利を握る立場であった。 しかし、続く軍人皇帝時代になって帝国各地の軍団が勝手に皇帝を擁立するようになると、帝位の承認機関としての地位も失なわれ、ローマ市の市参事会(市議会)程度の役割しか果たせなくなっていった。また、皇帝ガリエヌスの時代に元老院を軍務から締め出す法を可決したことで、軍務と政務のバランスの取れた人材を輩出する手段も絶たれた。 一方で、皇帝がローマ市から離れたことで、イタリア本土やアフリカでの元老院の影響力はむしろ増大した。また、イリュリア出身の氏素性が定かでない軍人上がりの皇帝たちは元老院との利害関係を持たず、元老院に関する問題については、軍に随行していた元老院議員や元老院からの使節団の意見が通りやすくなったと想像される。元老院が軍事からは締め出されていったのは確かであるが、政治的立場は従来とは異なる形で向上し、クラウディウス・ゴティクスやタキトゥス、プロブスに見られる元老院への敬意は、こうした歴史的事情を反映しているとも考えられる。見方を変えれば、皇帝の地位が単なる軍事司令官に低下し、政治は元老院が主催する体制になったと言える。 その後ディオクレティアヌスが軍人皇帝時代を終焉させ、専制君主制(ドミナートゥス)に移行すると、再び皇帝の地位と権威は向上し、元老院の地位は低下した。ディオクレティアヌスは属州を再分割し属州総督の権力を削減し、強固な官僚支配体制を確立したが、それは今まで半数の総督任命権を持っていた元老院の権力削減でもあった。 コンスタンティヌス1世は、自身もイリュリア出身でありながら元老院議員の再登用を進める。マクセンティウスを破りイタリアの支配者となった312年から326年までの間に次第に増員し、600名から2000名にまで拡大した。編入されたのは、主に騎士身分高官と都市参事会員層である。なお、この元老院拡充過程で、騎士身分はその固有の官職や称号を喪失し、身分としての特徴を失っていった。 ローマ元老院は476年に西ローマ皇帝の地位が廃止された以降にも存続した。東ローマ皇帝の代官としてイタリアを統治したオドアケルやオドアケルを滅ぼしたテオドリックの下で元老院は貨幣の鋳造権を取り戻し、ローマ市の人口が40万人ほどにまで回復したこともあって帝国におけるローマ元老院の権威は一時的に回復することになった。しかし6世紀になると東ローマ皇帝ユスティニアヌス1世が西ローマ帝国における皇帝権威の回復事業によってローマ市を大きく荒廃させてしまい人口も激減、多くの建物やモニュメントが打ち捨てられて廃墟と化し、政治・経済の中心地であったフォロ・ロマーノは土砂の下へと埋もれてしまったほどであった。さらに554年のユスティニアヌス1世による『国事詔書(英語版)』(Sanctio Pragmatica)によって行政権の一部が元老院からローマ教皇庁へと移されたこともあり、これ以降、ローマ元老院の政治的重要性は大きく低下していった。ローマ元老院の存続は以後も例えば9世紀のローマ教皇セルギウス2世の治世などに確認できるものの、その組織的な政治活動を確認できるのは7世紀初頭の東ローマ皇帝フォカスの治世までとなっている。教皇庁へ与えられた行政権は1143年に市民蜂起によってローマ元老院へと返還されるが、返還当時に古代から続いていた元老院家系は僅か50家ほどで、12世紀末まで元老院議員としての活動を続けていたのは「元老院の第一人者」(プリンケプス・セナートゥス(英語版))でもあるローマ市長官だけだった。
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