ボナパルティストの活動
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/12/27 18:57 UTC 版)
「ボナパルティズム」の記事における「ボナパルティストの活動」の解説
ボナパルティストには、ナポレオン1世が失脚直後から百日天下、そしてセントヘレナ島流罪とナポレオンが生存していた頃のナポレオン支持者も含める。ナポレオン支持者はナポレオン戦争終息後、復古王政下のフランスで王党派からの迫害を受けた(白色テロ)。流罪となってもナポレオン支持者の復位の策謀があったが、ナポレオンは復位を拒んだ。 ボナパルティズム運動の実質は、ナポレオン1世の死後から始動する。運動の初期は、ナポレオン1世の嫡子でローマ王だったナポレオン2世の擁立に向けられたが、1832年に死去したため、ナポレオン1世の弟ルイ・ボナパルトの子ルイ=ナポレオン・ボナパルト(ナポレオン3世)を宗主として仰いだ。ルイ=ナポレオンは1840年、7月王政期のフランスでクーデターを起こしたが、この時は失敗した。 この運動は、第二共和政下でのルイ=ナポレオンの大統領就任、クーデターを経て、1852年の第二帝政成立に結実した。第二帝政崩壊後の第三共和政下では、ボナパルティストはナポレオン3世の皇太子であったナポレオン・ウジェーヌ・ルイ・ボナパルト(ナポレオン4世)に望みを賭けたが、同じような保守派でも、立憲君主制を志向し人民主権や自然権は認めるオルレアン家のルイ・フィリップ1世の一族を推すオルレアニスト(オルレアン派)や、革命も帝政も否定しアンシャン・レジームへの復帰を求め、シャルル10世の直系、その断絶後はスペイン・ブルボン家の王族を推すレジティミスト(正統派)と競合することになった(オルレアニストとレジティミストは王党派と総称されるが、共にカペー家の流れを汲む一族を支持しており、歴史的正統性は高かった)。自由主義者からはレジティミストのような極端な王党派は嫌悪されたが、その一方でボナパルティストも民主主義を標榜しながら結局は政治的自由を抑圧する独裁体制を正当化するものとみなされた。 1879年のナポレオン・ウジェーヌ・ルイの死後は、ボナパルト家支持者という意味でのボナパルティズムは有力な政治運動ではなくなっている。ただこの狭義においてのボナパルティズムは20世紀まで続き、特にナポレオンの生地コルシカ島の各市の市長にはボナパルト派と呼ばれる人物が存在していた。
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