第二帝政成立
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/07 15:10 UTC 版)
ヨーロッパでは産業革命の波と凶作とによって封建的政治体制を覆す革命の波が押し寄せつつあった。 1848年革命(二月革命)が勃発してオルレアン朝が倒れ、短期間ながら第二共和政が成立したもの、政情不安が続いていた。こうした状況に頭角を現したのがナポレオンの甥ルイ・ナポレオンであった。彼は国民の圧倒的な支持で大統領就任を果たす。1850年代に入ると景気回復が進み、政権は安定していく。ルイ・ナポレオンは産業革命を強力に推進する一方、積極的な社会政策を実施して、フランスの近代化を進めていった。同時代、アメリカではゴールド・ラッシュが到来した影響で農作物価格が上昇し、農業国フランスを支える農民の生活は向上していった。 1851年、ルイ・ナポレオンは国民的人気を背景にクーデターを断行、翌年には皇帝に即位して、ルイ・ナポレオンはナポレオン3世となった。ここに第二帝政が成立する。 第二帝政は成人男子選挙権にもとづく民主制に基礎を置いていたが、議員就任には反動的な内容の1852年憲法を下敷きに作られた帝国憲法への宣誓が必要で、実質的に皇帝の臣下を民選しているという程度のものであった。第二帝政期の政治の実態として、皇帝の権限が非常に強く、大臣の任命から行政官任用にいたるまでの人事権が皇帝に集中、皇帝専制政治の色彩を帯びたものであった。 ただ1850年代は西ヨーロッパ諸国の安定の時代であったことから時代の追い風を受けていたため、反動政治に対する国民の反発も少なかった。ナポレオンは即位当初は非常に意欲的で、積極的に自由主義政策を展開し、1860年には英仏通商協定(英語版)を締結した。この貿易自由化政策の結果、フランスでは農産物の輸出が増加して農民の生活は向上に向かっていた。また、皇帝は諸階級の上に立つ存在と見なされていたことから社会主義(空想的社会主義の一つサン・シモン主義に近い)に対しても受容的な立場をとっており、皇帝の従兄弟にあたるナポレオン公シャルル・ボナパルトの指導のもとで労働者に対する恩恵的な政策も実施された。第二帝政期のフランス政治はボナパルティズムという民主主義と専制主義の一種独特な同居状態にあったと言える。 左:1795年から1860年までの12の行政区と48のカルティエ 右:1860年以降の20の行政区 そして、ナポレオン3世は好景気を背景としたジョルジュ・オスマンによるパリ改造や鉄道敷設事業など大規模な公共事業(オスマニザシオン)が展開された。パリ改造は次のようなものであった。官庁街や住宅街などの区画整備を推進して西部に高級住宅街を造成した。さらに、下水道の完備など公衆衛生施設の改善に努め、不衛生なパリをより清潔な都市に変えていった。歴史的建造物の周辺に広大な広場を造成した他、広場と広場とを直線的な幹線道路で放射状に結び、都市過密の解消を試みた。中世以来のパリを近代都市として生まれ変わらせていったのである。パリは20の区域に区画され再編されて現在われわれが見ている近代都市パリが形成されることとなる。ただし、一方でこうしたパリ改造のために一般の民衆は過酷な立ち退きが強制され、こうした人々は住み慣れた中心部から追い出されて離れた郊外に移住を強いられた。その結果、パリ市近郊には中心部を取り巻くように「赤いベルト」と呼ばれた貧民街が形成されることとなった。コミューン革命の舞台はこうした環境下のパリだったのである。 「ナポレオン3世」、「ジョルジュ・オスマン」、および「パリ改造」も参照
※この「第二帝政成立」の解説は、「パリ・コミューン」の解説の一部です。
「第二帝政成立」を含む「パリ・コミューン」の記事については、「パリ・コミューン」の概要を参照ください。
- 第二帝政成立のページへのリンク