ボナパルト体制下の闘争
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「ミケーレ・カラスコサ」の記事における「ボナパルト体制下の闘争」の解説
ミケーレ・カラスコサは1774年4月11日、シチリア王国のパレルモに生まれた。カラスコサ家はスペイン系であり、1734年にナポリを経由してシチリア島に移り住んだ一家である。また代々軍人や政治家を輩出する家系で、弟のラファエレ・カラスコサ(イタリア語版)も政治家としてイタリア統一運動で名前を残している。 軍隊に入隊後は騎兵中尉となって、1796年にはオーストリア帝国側に立ちロディの戦いに参戦、負傷している。これ以降はフランスや革命勢力に与するようになり、パルテノペア共和国に参加して騎兵少佐の地位を得た。しかしパルテノペア共和国は崩壊しブルボン家が復古すると、カラスコサは裏切りの罪で逮捕され数年間投獄された後、復活したナポリ王国から追放された。 1806年にはナポリ王国に舞い戻り、ナポレオン・ボナパルトに与して第一連隊の大隊長を務めた。1808年には自身のルーツであるスペインの半島戦争に参戦して一時捕虜となるが、ドメニコ・ピノ(イタリア語版)によって救出される。1813年1月ジョアシャン・ミュラの治世下では男爵に叙任され、1815年にはオーストリア=ナポリ戦争(ナポリ語版、イタリア語版)にも参戦した。その戦争ではカラスコサは一時軍の最高司令官となってモデナ、レッジョ・エミリア、カルピの占領に成功するなど武勲を上げたが、ピエトロ・コレッタを通じてナポリ王国のオーストリア帝国に対する降伏条約「カザランカ条約(イタリア語版)」に署名、戦争終結に貢献した。その後ウィーン体制が成立すると降伏条約締結の功績が認められナポリに留まる事ができ地位も維持、革命闘争とは一時的に距離を置いた。
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