ボナパルト家との出会い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/01 06:48 UTC 版)
「デジレ・クラリー」の記事における「ボナパルト家との出会い」の解説
1794年に父フランソワが死去した後、兄エティエンヌがクラリー家の家長となるが、革命前に彼の父が貴族に列してもらえるよう働きかけを行っていた事を理由として、革命政府当局に逮捕された。通説では、兄の釈放嘆願に兄嫁と共にマルセイユの公安委員の事務所へ赴いたところ、控えの間で待たされている際に眠りに落ち兄嫁に置いて行かれた。そこでコルシカから家族と共にマルセイユに移住していたジョゼフ・ボナパルトと出会い、家に送り届けてもらった縁でクラリー家とボナパルト家は交流を持つようになったとされる。一説によると、当初はデジレとジョセフが婚約していたが、ナポレオンの提案で彼がデジレと、ジョセフが姉のジュリーと縁組みされたという。ジョセフとジュリーの結婚の後、1795年4月にナポレオンとデジレは婚約したというが、実際のところ双方の家で真剣に受け止められなかった。デジレの兄が一家にボナパルトは一人で十分と言った話はかねてから知られているが、ナポレオンの方も本腰を入れてはいなかった。理由として、既にトゥーロン攻囲戦で名を上げた、上昇志向にあふれたこの若き指揮官は常により良いチャンスをうかがっており、また兄のジョセフとの仲は家長の座を巡って流動的であった為、その兄とあえて相婿になる意思はなかったと考えられている。ナポレオンにとって彼女との婚約はあくまでもオプションの一つであり、事実、わずか5ヶ月後の9月に彼はジョゼフィーヌ・ド・ボアルネと出会って婚約を破棄し、翌年彼女と結婚をした。婚約を破棄されたデジレは感傷的な文面の手紙を彼に送っているが、彼女の方も6月に姉夫婦とマルセイユからジェノヴァに移ってからは稀にしかナポレオンに手紙を送っていなかった。 1797年、ジョセフが教皇領の大使に任命されたことで、デジレも姉夫婦と共にローマに移り住む。そこで、ナポレオンの介在のもと、デュフォー将軍との縁談がまとまりかけたが、彼がローマにて反乱分子によって殺害されたため、破談となった。
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